Festina Lente2

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枕草子を後書きから読む

再び、上智大学大阪サテライトキャンパスにて、
三田村雅子氏の講演による枕草子のお勉強。
夏の源氏物語の勉強に引き続いて、古典にいそしむ霜月の末。
でも、どうもこの教室の雰囲気は少々落ち着かない。
教室の形、部屋の変形した形のせいかもしれないが。


いつものように、三田村先生は元気だ。
こんな風にパワフルに講義して下さる先生、大学には少なかった。
まあ、講演会と講義は違うか。
学生時代の聞く姿勢のいい加減さからしたら、
確かにお金を払って聞きに来る大人の聴衆、
そこそこそれなりの興味関心を持つ相手に対して話をするのは、
それなりに気合いも入るが楽しいことなのだろう。


枕草子の原本がどうなのか、流布本にどんな系統があるのか、
そういうことは門外漢だが、後書きがあるなんて知らなかった。
それも、跋文(あとがき)の後に、
跋文に登場する源経房と作者・清少納言の孫に当たる橘則季の経歴が
ご丁寧にあるそうな。そして、更に、(安貞2年)3月付の
耄及愚翁(もうぎゅうぐおう)と名乗る人物による以下の奥書も。


いずれにせよ、コピー機がなかった時代の手書きの写本が当たり前の時代。
枕草子といえども、散逸、異同、誤写は免れない。
残っているだけでも御の字、素晴らしいとしかいいようのない古書。
その後書きからどんなことが見えるというのか、何を読み取ろうというのか。


その「あとがき」には成立の事情やきっかけ、
題名、内容、読者の反応、流布の事情など重要な情報満載。
ここから想像できる枕草子の世界を探るというわけ。
さて、紙が貴重だった時代、どれほどそれば宝物だったか。
敬愛する定子から託された意図を、どのように受け止めたのか。
人間関係、機微、当時の事情などを交えて面白おかしく楽しく、
あっという間に時間は過ぎてしまった。

あとがき、つまり跋文は次のような内容。

枕草子

枕草子

この草子、目に見え、心に思ふことを、「人やは見むとする」と思ひて、
つれづれなる里居のほどに、書き集めたるを、あいなう、
人のために便なきいひ過ぐしもしつべきところどころもあれば、
「よう隠し置きたり」と思ひしを、心よりほかにこそ、漏り出でにけれ。
宮の御前に、内の大臣のたてまつりたまへるを、
「これに、何を書かまし主上の御前には、『史記』といふ書(ふみ)をなむ、書かせたまへる」
など、のたまはせしを、「まくらにこそは、はべらめ」と申ししかば、
「さば、得てよ」とて、賜はせたりしを、あやしきを、
「こよや」「なにや」と、尽きせず多かる紙を書き尽くさむとせしに、
いとものおぼえぬ言ぞ多かるや。


大方、これは、世の中にをかしき言、
人のめでたしなど思ふべき名を選り出でて、
歌などをも、木・草・鳥・虫をも、いひ出だしたらばこそ、
「思ふほどよりはわろし。心見えなり」と、譏らめ。
ただ、心一つにおのづから思ふ言を、戯れに、書きつけたれば、
「ものに立ちまじり、人なみなみなるべき耳をもきくべきものかは」と思ひしに、
「恥づかしき」なんどもぞ、見る人はしたまふなれば、いとあやしうぞあるや。


げに、そもことはり、人の憎むを「善し」といひ、
褒むるをも「悪し」といふ人は、心のほどこそ推し量らるれ。
ただ、人に見えけむぞ、ねたき。
左中将、まだ「伊勢守」ときこえし時、里におはしたりしに、
端の方なりし畳をさし出でしものは、この草子載りて出でにけり。
まどひ取り入れしかど、やがて、持ておはして、いと久しくありてぞ、返りたりし。
それより、歩き初めたるなめり。
とぞ、本に。


だそう。でも、人目につくようなところに出さなければ、
本に足がついて出ていくはずもなし。
確信犯的流布、だね。
何故、貴族社会にこの話を知らしめる必要があったのか。
それは、闇に葬られようとする、
道長に蹴落とされた悲劇の人々を世に残すため。
なるほど、明日の講義も楽しみ。


枕草子 表現の論理

枕草子 表現の論理

 
ヘタな人生論より枕草子 (河出文庫)

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