Festina Lente2

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「ALWAYS 3丁目の夕日 '64」の頃

東京オリンピックを覚えている。
あの独特のファンファーレを覚えている。
日本中の青空を集めてきたといった放送はともかく、
幼稚園児だった私は、それこそギリシア彫刻なんぞ知らないのに、
円盤投げのポーズだかスタートダッシュをだか、
端正なレリーフを持つ「貯金箱」にどっぷりと色絵の具を塗る、
楽しい工作の時間をもてたのが東京オリンピックの思い出である。


三丁目の夕日の面々は、カラーTVでオリンピック放送を見ることが、
素晴らしいステイタスであったらしい。
私の知るところ、最も金持ちだと思っていた友人宅、
私のピアノの先生宅にカラーTVがやって来たのは小学校3年の時。
我が家にカラーTVがやって来たの中1という有様。
何しろ電話も呼び出しが当たり前で、自分の家に黒電話なるものが
レースの付いた敷布の上に陣取ったのは小学校5年ぐらいではなかったか。


新幹線だけは乗るのがクラスで一番だったと思う。
何しろ親の里が東北なのだ、丸一日掛かりの里帰りが
「新大阪」駅から「新幹線ひかり号」に乗ることで、
どれだけ豪華なものになったかわからない。
速度計を見ながら今どれくらいの速さか、わくわくしながらみつめていた。
そんな時代の話だ、懐かしさに涙が出る。


映画は過去の記憶を触発する、一つの起爆剤
ショック療法にも似た、そんな過去見の鏡のような世界。
普段は記憶の底に眠っているはずのものが、ああそうだったと、
こんなこともあったねと、多少美化された総天然色の思い出を蘇らせる。
人々が明日は素晴らしい日になると信じて前向きに生きていた、
そんな時代の映画、『ALWAYS 三丁目の夕日64』。


私は幼稚園児だった。社宅から歩いて通った。
藤棚の下の大きな白い亀の下に潜り込むのが好きな、
浜辺で桜貝を見つけては、父親のHOPEの空箱に詰め込んで、
貝殻を大事にしまっていたあの頃。
私の毎日は、遊ぶこと。駆け回ること。
花を摘み、虫を捕まえ、少しだけオルガンを練習し、
沢山絵本を読み、親の前で三つ指付いて、
「おやすみなさい」を言っていた頃。

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