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思秋期の私が思春期を語る

職場では区切りの行事が入っている。その準備でバタバタだ。
でも、私の心は虚ろ、がらんどう。
もう一切が遠く離れてしまっている感じ。
私の手の中にある現実感は全く消えていて、存在価値さえわからない。
何かに一生懸命になっても、それが「ここ」でどんな役に立つのかさえも。
自分の存在、役割が希薄になってしまい、義務を果たしている実感も、
果たさなければならないという「服務への最低限の情熱」さえも、
湿ってしまい、火の付けようがない。そんな気さえする。


これは更年期、プチ鬱? 気分障害? 適応障害? 離人症
「ここ」では何をやってもやるせない。何に結びつくのかわからない。
自分がパーツに分解されて、トータルに評価されているとは思えない。
きっとわがままで、自分にできることしかしない人間と思われているかも。
頑固で、頭の古い昔かたぎの人間と煙たがられているのかも。
おや、被害妄想? ただでさえ僻みがちなのに? かこち顔なる・・・。
周囲と繋がって仕事をしている感覚が、ただでさえ希薄な職業、職場。
みんながみんな自分のやり方に固執、実績は目に見え難い。
共通認識も、評価基準も確たるものがあるようで、その実、曖昧。
ビジュアル化・効率化の波に乗り遅れている世界で、結果を出すのは難しい。


文句言いが断然働かず、文句を言わない人の方が働き過ぎ。
声の大きな人が、言った者勝ちで場を制する世界。
職場って本当に不思議なところ。やらない人を削るのではなく、
出来ない人を伸ばすでもなく、出来る人のところに仕事が集中する。
そして出来る人は極限まで働かされ、挙句の果て、潰れる。
この職場は病める人が多い。辞める人が多い。あれ、掛詞か?
そんな職場のコマの一つになって、どこまで行けばいいのだろう。
以前よりも上手にストレスをかわしているはずなのに、この年度末。
やりたいことよりも、やらなくてはならないことの方が多い、
頭ではわかっていても、身体や心が付いて行けなくなっている。
大人としての当たり前の生活に疲れ切ってしまい、八つ当たりしそうになる。


そんな私が、「思春期」について話す機会を得た。
昼と夜、2講義分、何をどうまとめて練り上げ、一つの形にするか。
かなり長い間イメージを暖めてきた。
相手を見ながら(見てから)臨機応変に話題を変えるということが、
今の私にはできるだろうかと迷いながらも、
その場に対峙することが不安ながらも今日、この時が待ち遠しかった私。
ナマの現場を、真剣に取り組もうとしている人と向かい合うことができる、
そういう世界に触れることができるのだと思うと、
ますます気分は高揚し、と、同時に職場から気持ちが離れる。
この矛盾。本来ならば、循環するように情報を共有し、
どちらも裏表の関係で密接に繋がっていなければならないはずなのに。


思秋期の私が思春期を語る。
いったいどんなふうに、どんな切り口で、
どんな内容を伝えたいのか、語り合いたいのか、
輪郭を縁取り、型に嵌めるのではなく、
お互いの相互作用を通じて創り上げていく2時間の中で、
私たちは何を目指したいのか、何をどう推し進め、広げて生きたいのか。
一人の人間として、思春期の入り口に立つ娘の母親として、
職場での葛藤・ギャップを抱えたままで、戸惑いや憤り、
眩暈のするような現実を、半分オブラートに包んで話し始める。

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