Festina Lente2

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思秋期の私が思春期を語る

職場では区切りの行事が入っている。その準備でバタバタだ。
でも、私の心は虚ろ、がらんどう。
もう一切が遠く離れてしまっている感じ。
私の手の中にある現実感は全く消えていて、存在価値さえわからない。
何かに一生懸命になっても、それが「ここ」でどんな役に立つのかさえも。
自分の存在、役割が希薄になってしまい、義務を果たしている実感も、
果たさなければならないという「服務への最低限の情熱」さえも、
湿ってしまい、火の付けようがない。そんな気さえする。


これは更年期、プチ鬱? 気分障害? 適応障害? 離人症
「ここ」では何をやってもやるせない。何に結びつくのかわからない。
自分がパーツに分解されて、トータルに評価されているとは思えない。
きっとわがままで、自分にできることしかしない人間と思われているかも。
頑固で、頭の古い昔かたぎの人間と煙たがられているのかも。
おや、被害妄想? ただでさえ僻みがちなのに? かこち顔なる・・・。
周囲と繋がって仕事をしている感覚が、ただでさえ希薄な職業、職場。
みんながみんな自分のやり方に固執、実績は目に見え難い。
共通認識も、評価基準も確たるものがあるようで、その実、曖昧。
ビジュアル化・効率化の波に乗り遅れている世界で、結果を出すのは難しい。


文句言いが断然働かず、文句を言わない人の方が働き過ぎ。
声の大きな人が、言った者勝ちで場を制する世界。
職場って本当に不思議なところ。やらない人を削るのではなく、
出来ない人を伸ばすでもなく、出来る人のところに仕事が集中する。
そして出来る人は極限まで働かされ、挙句の果て、潰れる。
この職場は病める人が多い。辞める人が多い。あれ、掛詞か?
そんな職場のコマの一つになって、どこまで行けばいいのだろう。
以前よりも上手にストレスをかわしているはずなのに、この年度末。
やりたいことよりも、やらなくてはならないことの方が多い、
頭ではわかっていても、身体や心が付いて行けなくなっている。
大人としての当たり前の生活に疲れ切ってしまい、八つ当たりしそうになる。


そんな私が、「思春期」について話す機会を得た。
昼と夜、2講義分、何をどうまとめて練り上げ、一つの形にするか。
かなり長い間イメージを暖めてきた。
相手を見ながら(見てから)臨機応変に話題を変えるということが、
今の私にはできるだろうかと迷いながらも、
その場に対峙することが不安ながらも今日、この時が待ち遠しかった私。
ナマの現場を、真剣に取り組もうとしている人と向かい合うことができる、
そういう世界に触れることができるのだと思うと、
ますます気分は高揚し、と、同時に職場から気持ちが離れる。
この矛盾。本来ならば、循環するように情報を共有し、
どちらも裏表の関係で密接に繋がっていなければならないはずなのに。


思秋期の私が思春期を語る。
いったいどんなふうに、どんな切り口で、
どんな内容を伝えたいのか、語り合いたいのか、
輪郭を縁取り、型に嵌めるのではなく、
お互いの相互作用を通じて創り上げていく2時間の中で、
私たちは何を目指したいのか、何をどう推し進め、広げて生きたいのか。
一人の人間として、思春期の入り口に立つ娘の母親として、
職場での葛藤・ギャップを抱えたままで、戸惑いや憤り、
眩暈のするような現実を、半分オブラートに包んで話し始める。

思春期の危機をどう見るか (岩波新書)

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思秋期の同級生たちへ―昭和三十年代に生まれ育って

思秋期の同級生たちへ―昭和三十年代に生まれ育って


思春期、その入り口に立つこと。何もわからないまま、不安を抱えて、
心の変化・体の変化に翻弄されて、自意識過剰に、より過敏に、
より混乱して、時には自分自身を見失い、再構築を図る時期。
自己を見出し、創り上げ、手応えを感じた瞬間打ち砕かれる、
そんな繰り返しが果てしなく続くように感じる時期。


楽しいこともあるけれど、辛いこともある。
当たり前に「胸に棘刺すことばかり」ではないにしても、
自分の心のどす黒さに気付き、うろたえ、純粋でありたいと望みながらも、
全く相反するものに引き裂かれるように惹かれてしまう自分に悩み、
こっそり辺りを盗み見しながら、時には知ったかぶりで誤魔化しつつ、
自分だけじゃなかったと一喜一憂、悲喜こもごも。
遠く離れてしまえば、懐かしく微笑みたくなるようなことも、
思い出してみると、いまだに胸痛む切ないことも、どっさり。


全てがペールトーンで塗り込められて、
元々原色だった部分が、覆い隠されてしまっているような、
そんな私の思春期。いつの間にか無意識に塗り替えてしまった思春期。
しかし、それは私の受け取り方であって、人それぞれ違うはず。
だからこそ、思春期は治りきらない傷跡のようにいつまでも疼く。
人の傷跡を見ても刺激される。そんな人生の一時期。
思秋期の向こうに遠ざかっていったと思っていたら、
娘の成長と共に蘇ってきたあの時期。思春期。


しかし、自分でも自分が不思議。
この場で、にこやかに笑って話をしている私が。
何故、微笑みながら頷き返すことができるのか。
私の中に全く別の自分がいて、のっとられているよう。
時間交代制で、別の人格が現れているみたい。
それともこれが本来の私だったのかとある意味納得、
少し錯覚、してしまうくらい。


娘よ、本当のかーちゃんはどこにいる?
君にとってのかーちゃんは日に日にオニババ化してきている。
柔らかく微笑みを返すことが、一日のうちどれくらいあるだろう。
君の様々な戸惑いに、親として当たり前に受け答えするよりも、
受け流す方が多くなっている。そんな私をどんな目で見ている?


思春期も思秋期も、自分の心と体の変化に戸惑う時期なのに、
一人ひとりの思春期も思秋期もそれぞれが違うというのに、
人生でただ一度きり、一期一会でやり直しようが無い。
なのに、そのバランスは脆く危なっかしく、
自分らしさを追及しようにも、自分らしさがわからないまま、
坂を転げるような勢いで、周りが見えないような目隠し状態で、
自分の人生のある時間を大きく占めて展開していく。


私はまるで自分が柔らかな薄い膜になったように、
自由に伸び縮みするのを感じながら、人の言葉を受け止める。
人の話に一語一語に耳を傾け、重く湿った空気を、
時には見通しがつくように深く溝を掘る気分。
目に見えない水を流し、洗い清め、
再び、魔女が鍋をかき回すような気持ちになって、部屋を見回す。
どんな味付けになるか、どんな効き目になるかわからない、
闇鍋のような私たちの「集い」の彼方。
そんな時間が果てて、先輩は言う。
私達が欲しいのは知識ではなく、知恵なのよ。


先輩は囁く。面白いわよ。一緒にもっともっと人を育てていきましょう。
どんどん変わるところから変えていって、
ここを楽しく過ごせる場所にしないと。人生は楽しむためにあるのだから。
止まり木に軽やかに腰掛けて、カクテルを飲みながら一服する傍らで、
この後の運転のため、カフェラテをすする私。
どうにかこうにかバランスを取りながら、軋む椅子の音に、
自分が再び希薄になっていくのを感じながら。
香りの無い世界で、匂いやかな話題に付いて行けず・・・。


そう、その瞬間には先ほどまで講義していた私ではなく、
職場の中でどんよりとしている私の姿に戻っている。
ドッペルゲンガー、二重人格、どんな私が私に化けたのか、
12時前に魔法が解けてしまったように、私はいつもの私に戻る。
思秋期の中で、細かいやすりで神経を磨り潰すような、
座り心地の悪いバランスの取り難い椅子の上で、
「いつもの自分自身」に戻っている。


別の場所、別の時間、別の空間、別の次元、そこからやってきた私が、
かつての私を語るように、思春期を語り、思春期を描く。
その軽やかな、透明で濃密な時間をグラスに盛って、
瞬間冷凍してしまいたい。
この魔法の時間が、本当の自分の世界に変わるまで。
語る私が本来の私であると、いつもそういう自分でありたいと思う、
その自分自身の世界を手放さなくてもいいように。


そうありたいと思う私が、あるがまま受け入れられる世界に、
深く深呼吸できる、そんな自分自身を隠さなくてもいいように。

思春期ポストモダン―成熟はいかにして可能か (幻冬舎新書)

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詳解 子どもと思春期の精神医学

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日時計の影

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