Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

一人で居るのは・・・贅沢なこと

そう、こんな曇り空だから、真昼から外出しても大丈夫でしょ。
以前みたいに火ぶくれにならなくて済むでしょ。
お薬もよく効いているでしょ。
だから、一緒に遊んであげてね、と二人を送り出す。
さて、この散らかった部屋を何としよう?


誰かが居て、それでも一人で居る、この贅沢。
誰かを送り出して、一人で居る、この静けさ。
誰かを思いながら、一人で居ても寂しくないこの贅沢。
せっかく干した布団をにわか雨に降られてしまい、
あわてて取り込むことのできる贅沢な午後。
(いつもなら、誰にも取り入れてもらえない筈だから)

季節のかたち (知恵の森文庫)

季節のかたち (知恵の森文庫)

  
宙(そら)の名前

宙(そら)の名前

どうして、お母さんパソコン好きになったの?
そうだね、どうしてかなあ。
お母さん、携帯電話も機械も嫌いでしょ。
まあ、そうなんだけれどね。


身近に誰も居ない、誰に聞いてもわからない知識を
「箱」から取り出した。(本当はこんな使い方、したくはなかった)
取り寄せようにも、本は届くのが遅すぎた。
読もうにも、高すぎた。何冊もありすぎた。
とりあえず、付け焼刃でも知識は必要だった。
調べなければならないと、追い詰められた気持ちになった。
何を聞いても大丈夫だと思えるように、と思いながらも
聞いてしまえば、知ってしまえば以前の自分には戻れない。
よくわかっていて、知らなければならなかった。
現実を。


過覚醒の夜は仕事がはかどる。いくらでも読めるし、調べられる。
絶望の程度も深くなる。「調べては駄目だ」と主治医が言う。
知識だけが先行して一人歩きをするから。
希望よりも絶望が先導するから。
でも、希望を捨てたのは、私ではない。
絶望を連れて来たのは、私ではない。


どうやって付き合っていくかを、教えてくれるのは
いつだって生身の人間の、本音の言葉だ。
どんな心持ちで生きていくかを伝えてくれるのは
生身の人間の、経験から搾り出される声だ。
知ろうとする人間、すがろうとする人間、頼りたい孤独を
蔑まずに支えてくれるのは、誠意と真心から来る言葉だ。


悔しさも、悲しさも、諦めも、憤りも、怒りも、苛立ちも
切なさも、寂しさも、侘しさも、呆れるほどの驚愕も、
何もかも知っている。
それが、日常のささやかなひと声、囁き、声かけ、会話、挨拶
会釈、目礼、まなざし、凝視、観察、
たとえ、慇懃無礼なやりとりであったとしても。
涙に暮れる宣告であったとしても。


そこに意味を見出すのは・・・私。
そこに、自分へのメッセージを読み取るのは・・・私。
相手にとって、繰り返される日常の行為の一部分であったとしても
自分にとっては、たったの一回の出来事、
               邂逅、逢瀬、機会、チャンス。
そして悲劇であり、喜劇であり、茶番であり、狂言回しであり、
人生のドラマの一部分。


そう、言葉の雨に打たれに行くのだ、母さんは。
何かしら、意味を見つけて、読み替えて、自分の中に貼り付ける。
増幅させて、無限にコピーして、微かに見えた光を、
自分を暖めるまでに持っていく。この時間が必要なのよ。
心を暖めて、自分自身を充電させる、この贅沢な一人の午後が。
決して夜中ではなく、明るい日の下で、考える時間が。


そして、言葉の向こうに誰かの存在を感じて、
生身の人間の存在を感じて、感謝して、
明日も頑張ろうと思うの。
「お母さん」ではなくて、「私」は、
そうやって、「つながり」を意識して生きていきたいの。