Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

コップ一杯の水

職場で水を飲むことは、殆ど無い。
ペットボトルで水を飲むことも、殆ど無い。
最近では体にいいからといって、
ミネラルウォーターを常備している家庭も多いらしいが、
(むろんお酒のために用意している人もいるかもしれない)
古い人間のせいか、お水にお金を払う感覚が無い私。


まずい緑茶(葉っぱが安いから)で我慢するか、
自前のおいしい緑茶、もしくはペットボトルのお茶。
紅茶、コーヒー、ココア、その他の飲み物は、当然、自前。
だから、コップ一杯(以上)の水を飲むのは、外食時が殆ど。
茶店だったり、レストランだったり、お食事処だったり。
意識して、水分を取ろうと思ったことは殆ど無い。
ゆっくり昼食を取ることも少ないから、勢い口を湿らす程度に
お茶を飲む。味は二の次。思えば寂しいものだ。


だから、外で飲む水はとても新鮮に感じる。
まあ、わざわざミネラルウォーターを入れてくれる店は少ないだろうが、
中にはレモン水だったり、ミントで香り付けがされていたり、
美しい丸い氷や、ただの水が入っているとは思えないコップ入りなど、
たかがコップ一杯の水といえども、よくよく見ると侮れない。
中には、こんなに傷だらけのガラス(プラスチックの場合が多い)の
コップに入れたら、水が濁っていてもわからないじゃないかと思えるもの、
洗いが良くなくて口紅が残っていたりするもの、
生ぬるくて飲む気がしないもの、など様々。


コップ一杯の水で、実に、店の品定めができる。
容器、水の量、氷、水を持ってくるタイミング、
継ぎ足しに来るタイミング、
口当たり、香り、そして、そのコップの置き方に至るまで。


学生時代、喫茶店でアルバイトしていた頃は、
本当に水を出すところから苦労した。
広い店内でお客様を待たせることなく、
水を運んで、注文を聞いて、オーダー。
品物をお盆に載せて、置きに行く。
その一連の動作に、本当に緊張した。
当たり前のようで、実は店の印象を左右する。
意識するとぎこちなくなる。
あの頃の経験が、時々ふっと蘇る。


だから、(余裕のある時は)水を継ぎ足して貰った時に、
「ありがとう」とはっきり言うことにしている。
それは、店内で、どの席の水が切れているか、
目配り気配りしてくれている、証拠だから。
水を注いでくれる人の、職業意識の表れでもあるから。
(頼むまで注いでくれないことなんて、しょっちゅうだし)


外回りを終え、入ってきて、一気に最初の水を飲み干す客、
食事と共に少しずつ飲む客、食後に一気に飲んでいく客、
席を立ち上がりざまに、思い出したように口を付けていく客。
色んな客が、色んな水の飲み方をするだろうけれど、
どの客にも、オーダー以外に平等に配られるコップ一杯の水が
何よりも、その「客の位置」を固定し、その「場」を作る。
コップ一杯の水が、客の座る位置と店側の立ち位置を決め、
そこからすべてが始まり、終わる。


たかが一杯の水、されど一杯の水。


夏には冷茶、冬には暖かいお茶しか出さないところでも、
何も言わなくても、食後に薬の袋を取り出すと、
さっと、水を一杯持ってきてくれるお店。本当にありがたい。
服薬時、ちょっと無言で支えてもらった気分になる。
それは、本当に、ほんの些細なことなのだけれど。
こんな、当たり前のコップ一杯の水のように、
仕事でも、ごくごく当たり前の些細なことが、心の支えになる。


たかが一杯の水、されど一杯の水。
それが、ささやかな心の潤い、
小さな言葉かけ、それが、労わりであり、優しい気遣い。
日常生活の中の、無言の、心の支え。

水の「真」力

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脳のなかの水分子―意識が創られるとき

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