Festina Lente2

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鉛筆の持ち方から

この数ヶ月、受付業務を兼ねて、延べ何百人もの署名を見ている。
毎日ではないが、それでも、一定層の特定年齢の署名には、
実に特徴がある。
字の上手い下手の問題を分析しだしたら、きりは無いが、
それよりも驚くのは、全く鉛筆が持てていない事だ。
余りにも持ち方が変な人間が、増えていることだ。
棒でも握るように、グーで鉛筆を握っているのには恐れ入った。
これではノートも取れないだろう。勉強は進まないだろう。
効率よく字を書くなどということは、不可能に近い。
「すらすらとペンを走らせて」という世界からは、余りにも縁遠い。
鉛筆が持てない世代が、斯くも広がりつつあるということだ。
いったいこれを、どう考えればいいのだろう?


小学校での指導不足? 国語の学習時間短縮の影響?
でも、鉛筆はどの授業でも使うはず。
(ちなみに小1の娘は2Bを持ってくるように指導されている)
保育園・幼稚園等での早期教育の失敗?
共稼ぎの親が増えて、きちんと家庭で指導ができていない?
鉛筆よりも、シャープペンシルやボールペン等を使うから?
パソコンやワープロを使うようになったから?
低学年から携帯電話のメールを打つことが多くなったから?
運動不足と同じく、生活経験の不足が不器用さが増長している?
いったい何が原因なのだろう?


もちろん悪筆家は多い。自慢できることではないが。
悪筆家の鉛筆の持ち方は、どうだったのだろう?
もちろん、字が下手だということと頭の回転は比例しない。
しかし、パソコンが打てるからいいじゃないか・・・といっても、
自分の手で字が書けない、すらすらと書くことができないというのは。
字が下手なことも、筆順がめちゃくちゃなことも、
今更話題にして嘆くことではないのだろうが、
実際、ここまでひどいとは思っていなかった。


それとも健康調査のように、健康を数値に置き換え計測するように
能力別・成績別・地域別・年齢別に調査すれば、
きちんと鉛筆が持てているグループというのは(あるとすれば)
解析して、ピックアップできるものなのだろうか?
きちんと「基本的生活習慣が身についているもの」のように、
わかるものなのだろうか? 


といっても、偉そうな口を叩ける立場ではない。
私の箸の持ち方はおかしい。子供の頃少しは練習したが、
両親がきつく言わなかったのもあって、結局矯正されず、
自分の意識も低く、ごまかしながら過ごしてきて、
娘を持ってから、情けない思いをしているのが実情だ。
私はカッターナイフで鉛筆を削ることはできるけれど、
肥後の守を使って、鉛筆を削ったことは無い。
先輩たちから、不器用な世代だといわれ始めた世代だ。

そして、今また、時代に取り残されていて、
携帯電話でのメールを打つことができない。
(というよりも本質的に、携帯電話が嫌い)
タイプライターを高校時代から使い始めた私は、
ピアノを弾くこともあって、指使いは正しく覚えていたお陰で
パソコンのキーボードは、かなり早く打てる。
しかしながら、哀しいことに老眼がかかり始めた身には、
携帯のメールは「うざくて時間がかかる」
シロモノでしかなく、とうとう覚えようとはしなかった。
これから、どうするかも決めてはいない。
若い世代からすれば、携帯さえ使いこなせない原始人なのだ。
鉛筆が持てないぐらいで、どうこう言えた立場ではないのだが。


きっと、筆で字を書いていた世代は、
「最近筆も持てない奴が」と口にしただろうし、
ミシンが使われ、既製服が増えた時代には
最近、針も持てないし着物も洋服も縫えない人が増えてねと
陰口を叩いたことだろう。
そして私は、携帯も使いこなせず、Ipodも使えず、
進化して便利になった、様々なものを使いこなせないことで
差別され、選別化されていくことだろう・・・。
鉛筆の持ち方云々で、気に病むなんて、小さいことにこだわる方が
おかしいのだろう・・・。


赤ちゃんが成長発達する時、生まれた時にできていたことが
できなくなる時期がある。色んな反射も消えてしまう
生後半年までに、シナプスは大人の1.5倍に増え、緩やかに下降。
もって生まれた能力が消えていく代わりに、新しい能力を獲得して
生活環境に適応していくというが・・・。
器用に手先を操れなくなっているように見える、今の若い世代。
もはや5本の指を動かしたり使ったりはしない、携帯メール。
速くメールを打つ代わりに、筆を操り、鉛筆を持ち、針を動かす
今までの指の所作動作を失っていくのは、時代の必然なのだろうか?

人の能力と成長を見守る中にあって、知識と知恵のやり取りや
受容と共感を必要とする相談の現場にあって、
個々の成長を見つめながらも、ふと、不安に襲われる。
そして、自分にできないことを人に強要することはできず、
むろん教え導くこともできず、「できない人間」が増えるに従って、
何が「できる人間」が増えていくのだろうかと、不安になる。


何が必要なのか、何ができる方がいいのか、不安になる。
日常のささいな技術も、専門の技術も、知恵も知識も文化も、
有形無形の、伝承されてきた必然が、継承されるべき何かが
本質的な何かが、変形し、脱落し、欠落し、断絶し、消去されている、
その真っ只中、喪失の日々の中にあるのではないかと、不安になる。

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