Festina Lente2

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「型」ということ

昨日に引き続き、お稽古事の話。
娘のピアノについては、楽しく弾けるようになるまでは
もう少し時間がかかるから、様子見である。
自分にも覚えがあるから、それぐらいの見当は付く。
習い事というものは、変に自意識が凝り固まってからでは
素直に取り組めないことが多く、モチベーション以前の所で躓き易い。


私自身の経験で言うと、「お茶」と「お花」が駄目だった。
必要に迫られてでもなく、興味でもなく、
就職後、所謂世間並みの一般常識の範囲内で習ったのだが、
一番の理由は単純に金銭的な理由で、
2番目の理由は精神的・時間的・身体的なゆとりの無さで、
中途半端なまま、お師匠様に不義理をしてやめてしまった。


「型」にはまるどころか、小難しい薀蓄の世界についていけず
やめてしまってから、その世界が懐かしいと思い出したりはするものの、
とどのつまりは、私の現実の生活からはかけ離れた世界、
趣味というには余りにも金食い虫の道楽・・・と
その時はあっさりあきらめてしまって、現在に至る。
本格的なお道具で教えて下さる立派な師範についていても、これだった。
娘のことをどうこう言える立場ではない、かーちゃんの過去である。


しかし、「型」のある世界を否定したりはしない。
「型」にはまるということを嫌がったり、頭からけなす人もいるが、
鉛筆の持ち方然り、箸・フォーク・スプーン・ナイフ、包丁・鋏、
「何事にも先達のあらまほしきこと」であって、「型」は必要である。
書きやすい、指や手が疲れない、力を入れやすい、見た目にも美しい、
伝えられてきた使いやすい方法、その伝統の「型」を無視して
自分独自の方法で何もかも生活を支えるというのは、土台無理な話。


なのに、「子供の自主性・融通・ゆとり」などという、
意味も無い言葉に踊らされ、どこぞの芸人の馬鹿の一つ覚えのように
何事につけても、「自由だー!」と声を上げる輩をちらほら見かける。
ギターだって持ち方・担ぎ方があるように、当然弾き方がある。
ピアノも然り、どの楽器だって指使い・持ち方・構え方は基本中の基本だ。



自分の体を使いこなすということ。
素直に基本の「型」に従い、反復練習を繰り返して自然にその動作を獲得する。
むろん、心・気構え・心構えなど精神論も必要だろうが、その議論は後で。
まずは、繰り返し行うことによる鍛錬、体力的に技術的に、そして精神的に。
頭から覚えこむ前に、まず1本の鉛筆を持ち、1本の筆を携えて構え、
怪我をしないように包丁を使いこなし、(自分の左手を切るなんてもってのほか)
1本1本の指の先まで神経を行き届かせて、軽やかに鍵盤の上を走らせる。


その過程をすっ飛ばしては何もできない。
観念論・精神論だけでは料理はできぬ。曲は弾けぬ。字は書けぬ。
生活の中に溶け込んだ当たり前の、ささやかな動作でさえも、
意識しなければ継承できぬ現代社会。鉛筆も持てない子供を育ててしまった社会。
漢字の読み書きができず、携帯機種の変換機能にだけ頼っている世代。
自分の頭にある知識も体も使いこなせなくなった世代を育てた社会。

身体感覚を取り戻す 腰・ハラ文化の再生 (NHKブックス)

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漢字検定が持てはやされていること自体が、おかしい。
テレビ番組でいかに常識を持たないかを競うように、
恥をかくことで稼ぐ芸能人を「さらし者スター」に仕立てて、
何が面白いのかわからないが、それで成立する番組。
とりあえず、「人の振り見て我が身をなおせ」ということなのだろう。
反面教師というあり方を設定するには、余りにも設定が貧しすぎるが。


知識の習得、知恵の伝承、技術の継承、全てある程度までの型を必要とする。
学ぶに時があり、知るに時がある。「幾つになっても大丈夫」ではない。
物事の習得には「旬」がある。生涯教育とは別の意味で「旬」を逃すと、
できるはずのことができなくなり、何事も後手後手に回り追いつかない。
そのためのカリキュラムであり、教育であり、指導であり、支援なのだ。
それを命令だと誤解して、拒否反応を示す輩もいる。難儀なことだ。


高校生の半数以上はリテラシー難民である。
情報の時間、キーボードを正しい指で打てない。
というか、めんどくさがり正しい位置を覚えて打とうとしないので、
いつまでたっても早く打つことができない。
500字打つのに10分かかっても無理な生徒はざらだ。

型を覚えられない。型がめんどくさい、嫌いだ、好みじゃない。
誰にもわからない、打てたら文句無いだろう、ほっといてくれ、
見えない指使いが点数になるのか、やってられない。
細かいことをいちいち言うな、とのたまう世代。
今まであった必修科目を削って設置された「情報」の授業は、
従来の読み書き算盤以外の、リテラシー難民を増産する。


課題文が読めない。打てない。ワープロ機能を使いこなせない。
普段から携帯のメール機能だけに頼っているから、長い文章は苦手、
5本の指全部を動かすなんてことは、不可能に近い。
「何でもボタン一つで」の世代なので、指の機能は退化している。
それでも、ケータイから何でも情報が引き出せるから困らないとうそぶく。
情報の取捨選択はさておいて。

日本社会で生きるということ (朝日文庫)

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スポーツをするにも、勉強をするにも、何をするにも「型」はある程度、必要。
しかし「型」を習得するまで粘るどころか、最初から諦めてしまっている。
簡単に早くできればいい、インスタント・ファーストフード世代の生活は
身体感覚から遠く離れ、それに付随した言葉や共通体験からも遠ざかる。
自分の体を使いこなした結果、自然に動かせる体を得ることは無い。


ぎこちなさや気まずさ、乖離する意識と現実との間で、
バーチャルな達成感や万能感だけが肥大する。(現実の辛さ・困難は認めない)
身体感覚を伴わないイメージ優先の生活、地に足の付かない生活。
そのうちに、本当に地面そのものが無くなってしまいそうな
地球規模での危うい状態。脆い心身のバランス。


・・・地球は宇宙の中では小さな棗だ。この小さな棗を、
お茶の世界で言うところの「重いものは軽く、軽いものは重く」
扱うようにの精神で、優しく丁寧に扱うことができればいいのに。
緑の地球は、美味しい薫り高いお茶であるはずなのに、
扱う側に生活の「型」が無ければ、しみじみとは味わえない。


さて、本日は娘のピアノレッスン日。私は仕事だから付き添えない。
娘は娘なりに、何かを学んできているだろう。
習い事に多大な期待を寄せてはいけない、とも思う。
だから、私はかつての自分を反省している。省みて恥ずかしく思う。
「習い性になる」まで続けられなかった自分のことを。
思わず娘に期待を掛けてしまう、自分のことを。

メディア・リテラシー―世界の現場から (岩波新書)

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「教養」とは何か (講談社現代新書)

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