Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

子ども会キャンプ2日目

お付き合いと保護者の夜中の飲み会に顔を出す。
特に強い違和感は無い。まあ、子供相手は疲れるし、
気分転換は必要だが、初参加の保護者に、
女子14名全員任せる部屋割りとはどのようなものなのか、
正面切って訊けない自分ももどかしい。
飲み会自体は、話題も雰囲気もこういうものだろうという想定内。
なかなか寝ない女の子は役員もスポーツ指導で手を焼くという。


子供は群れると、羽目を外したがるものだということは知っている。
そう、女の子は手ごわい。特に集団の女の子は男の子以上に。
それにしても、グループの凝集性に反比例してだらしない現状。
シャワーヘッドは床に放り投げっぱなし、人の布団を、
それも寝ている大人の布団を平気で踏んでまたいで行く。
人のいない出入り口、襖を開け閉めするという神経は無い。
布団も枕も手本通りには仕舞えない。


というか、最初からきちんとする気など毛頭無い。
見知らぬ保護者から声を掛けられても、どこ吹く風は当然。
とうとうチェックに来たリーダーたちに任せたまま、
きちんと直しもせず、朝食に向かう高学年の女の子達。
やりたくないことやめんどくさいことなど絶対にしない構え。
きつく叱れば、風当たりは私にではなく娘に来る子供社会。


「真面目に付き合ったらしんどいだけだから、
いい加減手を抜かないと」と言われても、
どの辺からどう手を抜くのかさえもわからない。
というか、帰る道すがら50歳以上の一番年配の人曰く、
「学校はもうルールを守らせることもできないし、
 最近の子供たちは昔の子と違うんだからねえ。
 流れってもんがあるし、子供会は躾の場では無いからねえ」と
いう言葉に、心の奥底からがっくりきてしまった。

人生の教科書 よのなかのルール (ちくま文庫)

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親と子の[よのなか]科 ちくま新書

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飲み会、一夜明けて朝、ラジオ体操。毎朝元気に出かけている娘だから、
・・・と思ってみると、ラジオ体操が無茶苦茶である。
私だって親からラジオ体操を習ったのではなく、子供会の夏の行事と
小学校の体育祭で覚えた口だが、普通に体操はできる。
だが、娘の体操はひどい・・・。
この子はこういう子だったと見るべきか、親が指導し直すべきか。


朝のゲーム、男の子も女の子も2人1組が作れず、またまたひと悶着。
じゃんけん、3セット9回連続負けて泣きべその娘。
娘のこういう姿を始めて見て、色々考えさせられる。
娘は娘で色んな意味で、昨日から娘は凹み続けなのだ。
そういう娘の姿を見て驚いている自分自身に、私もまた凹み続ける。
親の気持ちが子供に伝染するのがわかっていて、なかなかセーブできない。


朝食、休憩、山登り、滑り台、山の木陰、金魚すくい
川遊び、沢蟹、スイカ割り、昼食、紙飛行機大会、行事は進んで
帰途に着く。解散場所でお土産の金魚を貰って大喜びの娘。
でも、娘曰く、一番楽しかったのは年長の男の子が一緒に遊んでくれた
昼休みのトランプゲームだったそう。


年の割に醒めた娘、みんなと自分は文緒さんと一臣兄さんの関係だと
言ってぼやいている。何のことか訪ねたら、川原泉の漫画、
知る人ぞ知る「笑う大天使」の主人公と兄の当初の関係。
お互い打ち解けにくいタイプである ということをこんなふうに
回りくどく親に訴えてくる娘が、地元の特別なグループに
早々あっさりとは溶け込めるとは思っていなかったが、
こういうふうに客観視しているとは思わなかった。


さて、役員さん曰く「子供会は躾の場ではない」とのこと。
むろん、100%躾の場であるはずは無い。だが、躾は必要だろう。
ルールも礼儀も内輪社会だからこそ、必要なものは沢山あるはず。
スポーツや町内の行事を通じて、交流を図るのは大切だからと
昔風の頭で単純に考えていた私は、昔ルールであり過ぎたのか。
それともなあなあで済む顔見知り社会に、子供も自分も顔を出そうと
思ったことが場違いなものであったのか。


何かを期待した自分自身が、娘共々ずれていたと認識して、
冷静になる必要があるのだろう。
家庭内教育力の低下が叫ばれて久しいが、当然それは
地域内教育力の低下であって、連帯感の希薄化、Etc.
昔からのムラ社会と住宅地の折り合いが見付からないままできた、
地元とよそ者の葛藤が、今回、ほんの少し垣間見られたに過ぎない。


土日、仕事や研修で忙しい保護者の私、転勤族別居結婚家族が、
地域社会に積極的に関わることは難しい。
子供の数が減ってきて子供会や町内会が弱体化しているのではない。
人口の急増に従って変化できない部分、変化してしまった部分が
より良い、望ましい方向ではなかっただけなのだ。
もちろん、何を基準に良し悪しの判断をするかにも拠るのだが。

「ビミョーな未来」をどう生きるか (ちくまプリマー新書)

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何れにせよ、母親の私が的確な判断ができず、町内会は無理でも、
子供会の付き合いには娘を通じて、多少とも顔を出すべきだろうなどと
思ったことが、間違いだったのかも知れない。
家人の赴任先の小学校は1学年2クラス、この土日は手作りの夏祭りで
賑わっていたらしい。電話で話す娘を見ながら、胸が痛んだ。
来年は子供会のキャンプに参加する・しないは娘に任せよう。


親子揃っていい経験を積んだのだ。思い通りにならないことや期待外れ、
予想外、想定外は世の中に山ほどある。
今回の挫折経験は、娘にも私にもいい経験だと思おう。
価値判断基準は人・集団・地域それぞれ、一概には責められない。
ルールは自分たちだけが持つのではない。
されど妥協点を見出せないならば、どちらかが引くしかない。
世間でかまびすしい選挙だって、国政だって矛盾だらけで進んでいく。
交代・分裂なんてあって当たり前の仁義なき戦いの政治の世界。
仲間内グループや結束なんて、あっという間に過去の関係。
信念だって、どこ吹く風の寄らば大樹の陰、
同一基準の期待を持ち続けることが、ずれていることなのだろう。


だからと言って、自分の思うところを大きく外れ、
信念を曲げることは無いし、現状維持という後退もしたくない。
切っても切れない職場内・地域社会の身の回りの小さな社会を
単純に「民度が低い」と一刀両断に切り捨てることも避けたい。
突き放したり諦めたりするのは、たやすい事。
予期せぬ波も、濡れながらでも避ける術を親も子も持たねばならない。


そんなことを考えながら、疲れ切ってますます眠れない夜。
雷鳴・土砂降りで明ける。
天も轟く、〆とせよの声か。

公教育の未来

公教育の未来