Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

価値を見出す疲れ

心に引っかかった新聞の記事が、頭の片隅を占める。。
何ともいえない心持ちを引きずりながら、週末から平日へ。
あっという間に2、3日が過ぎていく。振り返ることもできずに。


忘れ物をする娘に落ち込んだ日、
温かいコメントを頂き、気を取り直した日。
土曜日の朝刊を手に取れば、敬愛する塩野七生の記事。
文化功労者の欄で、彼女が語る言葉。
「自分に引き寄せず、歴史の中に出かけていくのがモットー」
頭が下がる。私自身の毎日の生活は、自分に引き寄せることばかり。
歴史を俯瞰できる能力は、謙虚に自分から歴史の中に出かけていくのだ。


その同じ朝刊に、唯一、署名記事、長年芸術欄担当だった、
編集委員、芥川喜好氏の連載「時の余白に
―実地、それのみの生」の欄で見かけた言葉。


「価値を見出す疲れ」なんてどきりとさせられる言葉だろう。
仕事でも家庭でも、何かに意味を見出そうとする強迫観念に縛られている。
意味が無ければ価値がないと、はなからそう思っている毎日。
「その価値を身にまとうことで自分自身の価値を高めなければならない、
という緊張も強い」とある。

全くその通りだと思う。芥川氏の言う通り。
見せ掛けの価値付け作業だけが暴走している社会。
10/27(土)の新聞から抜粋してみたい。

「名画再読」美術館

「名画再読」美術館

ルネサンスの女たち (塩野七生ルネサンス著作集)

ルネサンスの女たち (塩野七生ルネサンス著作集)


(前略)
― あらゆるものが、「価値」の程度によってランクづけされていきます。
 自分の学校が、会社が、住む町が、日常生活が、どのランクに属すのか、
 せっせと情報を仕入れて居場所を確かめずにはいられない。
 人より上なら安心、下なら不安というわけです。
 
  「人並み」ではない自立した生き方が許されない、
 無意識の締めつけがこの社会にはあります。
  かつては高校どまりだった学校の格付けは、今や小学校、
 幼稚園に及んでいます。人生も初めからがんじがらめです。
(後略)


比べてどうなるものでもない地方の郷土料理に
何故か、農水省がランキングを付ける。
同様に、毎日の生活の質に線引きがされる。
生活していること、息をしていること自体が、
「だたそれだけ」という受け止められ方をされず、
自分自身もそういう受け止め方ができず、日々を過ごしている。
その重だるい感覚に、徒労感を覚えて10月を終えようとしている。


昨日、月曜日の朝刊。正倉院事務所60年の記事。
「宝物保存 科学の光」と題されていたから、わくわくして読んでいたが、
私の目に止まったのは、保存科学室は僅か9人という勤務実態。
そのうち保存科学専門職員は、1973年が初採用で2人目が2年半前。
よくこれで、膨大な正倉院の研究資料を取り扱っているものだ。
たった2人で、正倉院御物の保存の未来を担っているわけだ。
後輩を育てることも、研究を引き継ぐことも不可能なほどの、
世代交代としか思えない、30年置きの採用。
プラスの内容の記事もあるというのに、こんな所だけに目がいく。


高額なアメリカの医療差別で、キューバに留学して医学を学ぶ留学生。
社会主義と非難されながら、人々が満足に享受できる医療体制。
世界の情勢・大勢とは裏腹に、動いていくもの。
価値転倒・逆転。国のエゴ、患者の命軽視の国の政策、
企業の利益優先の品質管理、家族ぐるみで接待を受けて豪遊する官僚。
楽に流されて、価値観を歪められたまま、価値に縛られて生きる。
何だか、明るいニュースに目が行かない。
明るいニュースに、価値を見出すことができないのだろうか?


せめて、秋風に吹かれる野の花の如くに、
誰に見られずとも、咲き続けていることが許される。
そんな一日を過ごしたい。
箱詰めになって仕事をしながら、思う。
「白玉は人に知らえず 知らずともよし
 知らずとも 我れし知れらば 知らずともよし」
これを唯我独尊と取るか、孤高の精神と取るか。
神無月も残す所1日。

なぜ自信が持てないのか―自己価値感の心理学 (PHP新書)

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