Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

SELF and OTHER

娘は運動会の代休で3連休だというのに、両親は仕事。
かわいそうなことだが、家で過ごさせた。
さすがに丸1日の学童はちょっと。
放課後預かってもらうのは有難いが、いわば保育園の延長。
遊ぶだけでは丸1日を使うのでは勿体無すぎるから。
娘は半日両親の共に。私は仕事を2時間だけ切り上げた。


久しぶりに家人の家へ出向く。ほぼ1ヶ月ぶり。
今日は金曜日、午後7時まで開いている国立国際美術館へ。
リュックサック姿の娘と、昼食抜きでやって来た私。
お目当てを目の前にして、ベンチで休憩。
コンビニの菓子パンにかぶりつき、エネルギー補給中、
1人の女性が近寄ってきた。
「今から美術館へ行かれるのですか」「はい」
「それなら招待券が1枚余っているので、どうぞ使って下さい」


なんて有難い、渡りに船。ご好意に甘えて早速出発。
残り時間2時間弱。ロッカーに荷物を預け、地下3階へ。
本日、開催されているのは「アジアとヨーロッパの肖像」
Portraits from Asia and Europe
展示の仕方が特徴的ということで、どんなものか
噂に聞くコンセプト、久々に覗いてみたくなった。

ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)

ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)

ジョコンダ夫人の肖像

ジョコンダ夫人の肖像

ジェニーの肖像 (創元推理文庫)

ジェニーの肖像 (創元推理文庫)


古典的な絵画や彫刻はいざ知らず、
現代的な手法に基づいたものは、今一つよくわからない。
しかし、娘は娘なりにあれこれ見て、質問してくる。
幸い終業前の美術館は観客も少なく、少々のお喋りも大丈夫。
何しろ子どもの姿なんぞ、とんと見ない時間帯と場所。
「花金」の夕べを、子連れで展示会場をウロウロする私。


子どもの目線は低いので、親が見えているものが見えない。
大きな肖像画の足元に描かれた小さなアイテムや、
背景の模様について尋ねてくる。
かーちゃんは専門家ではないから、一つ一つに答えることは出来ない。
でも、娘が自分とは全く視点で自分なりに物事を捉え、
何がしかの物思いに耽る姿に、娘の成長を思い、
この子がどんな風に世界の中に「肖像」を、
「姿」を見出して行くのか。



見ること、見られること。
自分の物の見方・考え方・視点で見ていたことが、
実は受け取る側の思い、受け取り方によって大きく異なる。
当たり前だと思っていたことが、実はそうではない。
信じていた基準が、実がそうではない。
他者の想像の中で捻じ曲げられていくように、
自分もまた他者を捻じ曲げる。


おあいこだと言えばおあいこだが、その形を絵画や、
地図、彫刻、明らかに具象化された思考そのもの、
生々しい・空々しい・馬鹿馬鹿しい・不可解な・
おどろおどろしい・ありえない・描かれ方をされて、
実在が捏造に、捏造が情報に、情報が現実に、
真実は受け止め方次第の世界に拡大されていき…。


情報の移り変わりが速い21世紀の中で育って行く娘、
この私との時間差、子育てにどのように影響するのか。
壁に飾られた写真や絵画を見ていると、
人は人をどのように見ているのか、おもんぱかる。
構図、表情、背景一つ一つに共通のものを見出し、
あるいは違和感を覚え、その差異に訝り、
作為と偶然の産物にあれこれと思いを馳せる。


娘を通じて自分を振り返る。
でも、結局はそれは自分のものの見方。
どこまで行っても、自分自身の枠組みから放たれることはない。
それでも娘と語らう時、何に興味を持ち、何を不思議がり、
何を面白がるのか、側にいて垣間見る一瞬、
世界が見知の柔らかさをもって、迎え入れてくれるような気がする。


いつかそれは未知の冷たさ、厳しさとなって
予測もしない方向から、跳ね返ってくるのかもしれない。
それでも秋の日の夕暮れ、手を繋ぎ歩く官庁街から美術館までの
中之島界隈の日暮れの景色を、見終わった後、
美術館前庭、光の川筋が走る路上を走り回っている姿を、
かーちゃんは忘れることはないだろう。


秋の日はつるべ落とし。とっぷりと暮れる。
まだ走り足りない赤い頬の娘と2人、地下鉄に乗り、
家人と待ち合わせて、熱いフォーをすする。
本日はベトナム麺で夕食。チェーのデザート。
私達お気に入りのエスニック料理の週末。
家族の合流する週末の夜。

父の肖像

父の肖像

若い芸術家の肖像 (新潮文庫)

若い芸術家の肖像 (新潮文庫)

都市・記号の肖像

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