Festina Lente2

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ノーベル賞も訃報も

二日続けてノーベル賞だって、嘘のようなホント?
本当らしい、何だか秋のエイプリルフールではあるまいな。
いや、今はオクトーバーだって。オクトーバーフェストの季節。
ビールを飲んで祝えって? ワインを飲んで寿げと?
日本人がいっぺんに4人もノーベル賞をとったなんて?
それも理科教育も数学も、学校教育そのものも危機的状況なのに?
茶番劇、本当に茶番劇。私は素直に喜べない。
斜陽大国日本。旧制中学・高校時代に叩き込まれた骨太浪漫派の、
意地とガッツが見せた最後の輝き、そういうもの?
古い業績、頭脳流出。もはや、純国内生産ではないノーベル賞


本当はもっと早くに貰っていても良かったんじゃないの?
内容的には、もっと早くに認められていたはずものじゃ。
どういう順番で貰えるのかわからないけれど、
どういう認知度・実績で選ばれるか、
トンと私たちの生活には関係ない次元の話だけれど。
ああ、困ってしまう。4人も一度に受賞だって、
名前も覚えきれないくらい。


最近は亡くなる人も多くて、動揺も激しくて、
ワープロ任せに字を書いていると、字も心許ない。
自分が書いている字と思っている字が全く違っていても気が付かない。
心の速度と、打ち出される字の速度に差がありすぎる。
心の中の思いと、表面に出てくる文字の薄っぺらさに差がありすぎる。
ああ、考えても思っても書ききれること、
写し切れることに差がありすぎて、
追いつけない追いつけない追いつけない。


誰に追いつきたいのか、誰に追いつきたいのか。
背中ばかりを見て、生きていたいわけじゃない。
背中ばかりに前を塞がれて、生きていたいわけじゃない。
昔思い描いていた夢や願いに支配されて、生きていたいわけじゃない。
そんなつもりで進んできたわけじゃない。
誰かを追い越すとか、肩車するとか、そういうことではなくて、
自分は自分の道を進んでいると思っていたのに、
でも、その道なんて世間の中ではあっても無くても同じ事で、
自分だけの一人相撲、独りよがり、思い込み、自意識過剰。


名前も覚えきれないくらい、訃報やニュースの有名人。
歴史の暗記から解放されたはずの社会人、
入試や受験には関係なくても一般常識で覚えないと、駄目?
私、覚えられなくなってきた、本当に。
私、思い出せなくなってきた、本当に。
私、覚え切れなくなってきた、もう既に。
一杯なの、一杯、次から次へと。


学びたいこと、知りたいこと、観たいこと、
聞きたいこと、訊きたいこと、聴きたいこと、
沢山沢山ありすぎて、追いつけない。追い越せない。
スピード違反で、物事を全て通り越していくわけに行かない。
そんな奇跡みたいなこと、できない。
チャンスの神様は前髪だけで突っ走る。
私は後ろ髪引かれる思いばかりが山積み。


これを生きることだというのか、
これは未練と後悔だけではないのか、
これは失敗や失策、お間抜けな結果の集積ではないと?
誰が言い切れる? 誰がフォローする?
誰が大丈夫、あなたはあなたのままでいいと、
自分自身にはっきりと、何の後ろめたさも引け目も為しに?

ノーベル賞の100年―自然科学三賞でたどる科学史 (中公新書)

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世界でもっとも美しい10の科学実験

世界でもっとも美しい10の科学実験

時に皆様、ノーベル賞を受賞した日本人をみんな言えますか?
私が覚えているのは川端康成からあと、2、3人?
輝かしい賞を受賞した人間が、どうにもこうにも行き詰って
ガスホースを咥えて自殺する日本、
そのニュースを深夜放送で聞いた中学生だった私。
その頃からノーベル賞に対するイメージが、附属するイメージが
何だか霞がかかって靄っている、そんな感じがする。


ノーベル賞川端康成と同時に候補になり、下馬評に上がっていた人が、
軍国主義的な美学なのか武道なのか、訳のわからない精神性、
主張する行動性、カリスマ的狂気、何が何だか割腹。
偉い人の考えることはわからない。
何を喋っているのか怒っているのかわからない退屈な作家が、
賞を取っていくけれど、やっぱり理解しきれない私。
その後、子供の頃は好きだったけれど、
今では大嫌いで苦手な分の研究者ばかりが、賞を取る。
だから上っ面を理解できても、内容の本質を理解し切れていない。
自分へのふがいなさと、観念的消化不良感ばかりが募る。


そう、メリーゴーラウンドのように上がったり下がったりしながら、
世界は回っているけれど、料金分しか回らない。
目が回っているのは、私が酔い易いから? 
それとも三半規管に欠陥が?
とても付いていけない、世の中の動きと変化に。
自分を取り巻く環境に、ニュースに、心かき乱される思いに。
そして、読めない見えない聞こえない自分の体に。
書けない、思い出せない、気付かない自分に。



聞こえていながら聞き間違い、見えていながら見間違い、
思い出しても勘違い、書いてみれば書き間違い、
読み返しても気付かない、この老化、ポンコツ、ていたらくに
愕然とする、苛立つ、腹が立つ、静かに「切れる」真夜中。
自分自身にやや絶望する、静かに諦める、見切りを付ける、
どうしようもない、これが現実、これが今の自分、今の私。


できてきたことができない、思い出させない。
大好きだったことでさえ、執着していたはずのことさえ、
日常生活に薄められ、削り取られ、押し潰され、押し流され、
元の形なんて、どこに行ったのかわからない。
元の姿なんて、自分でもさっぱりも思い出せない。
近視で老眼の人間は、近くも遠くもさっぱりも見えない。
モノの考え方の距離感も図れない、他人との距離もわからない。


察すること、その感覚さえもどこかに行ってしまった。
偽悪的にいじけてみても始まらないのに、
年甲斐もなくふざけてみても滑稽を通り越し、哀しいだけ。
なのに、祭りを立ち上げ楽しむどころか
疲れているのに、磨り減っているのに、立ち止まりたいとさえ思うのに、
外の景色も目に留める事もできない位の速度で、
通り過ぎていく日常。


毎日がドップラー現象。
近付いてくるときは大きな音で、鳴り物入りで、
音も光も影響力も被害も甚大の勢いでやってくるのに、
いきなり聾唖になったかの如く、聞こえなくなる世間の物音。
言葉も見つからず思うように綴ることもできない。
自分が何を喋っているのか、噛んでしまってうまく言えない。
思い描いていたイメージが、粉々に吹き飛んでいく。


下書き無しで書いていく文章、試し書き無しで綴る文字。
スピードを出していたはずなのに、突然の急停車。
予定通りに進まない行程、浪費される時間。
煮崩れていく自分自身、味も形も身も蓋も無い。
何故、なぜ、こんなふうな流れ、手応えになる?
ナゼ、どうして、いつもよりだだ漏れになる?


進む老眼、回らぬ舌。視野の狭窄、閉鎖的な心。
シンクロする世界。足し引きゼロになるはず。
相乗効果はプラスよりもマイナス、悲観的な未来。
だから、久々に明るいニュースが続きましたなんて、
簡単に言うけれど、認められたことは認められて来なかった裏返し。
いつかは誰かが認めてくれるという、切ない希望の裏返し。


だから、だから、だから不安になる。
記憶する端から忘れ、思い出せず、、覚えられないことに。
もう私は、時代を追い越していくことなんてできない。
時代に追いつくことなんてできない。
時代を作ることなんてできやしない。
先人たちはどんどん遠ざかる。物理学の法則にのっとって。
遥か彼方に行けば行くほど、逝けば逝くほど。


さて、誰がどんな賞を取ったか、覚えられる? 覚えてる?
1  1949年 湯川 秀樹 物理学賞
2  1965年 朝永 振一郎 物理学賞
3  1968年 川端 康成 文 学 賞
4  1973年 江崎 玲於奈 物理学賞
5  1974年 佐藤 栄作 平 和 賞
6  1981年 福井 謙一 化 学 賞
7  1987年 利根川 進 医学・生理学賞
8  1994年 大江 健三郎 文 学 賞
9  2000年 白川 英樹 化 学 賞
10  2001年 野依 良治 化 学 賞
11  2002年 小柴 昌俊 物理学賞
12  2002年 田中 耕一 化 学 賞


そして今回の物理学賞、益川 敏英、南部 陽一郎 小林 誠
化学賞 下村 脩。
ほら、やっぱり覚えきれない。

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