Festina Lente2

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本来は敬老の日

いつからこの日が敬老の日でなくなってしまったのか。
何十年も敬老の日で生活してきた人間にとっては、
イースターの移動祝祭日じゃあるまいし、何で毎年休みが変わるのか、
連休にしなければならないのか疑問。
日曜日と祝日が重なったら、月曜を休みにするというのはまだしも、
何が何でも連休にしなければならないというのは、どうか。
飛び石連休というものも「あり」という生活を送ることが、
それほど不都合なのか、疑問。


それでなくても週休二日制で、国民は働かなくなっている。
生活の潤い・ゆとりの為の余裕と言っちゃ何だが、
ゆとりのある分、減収は仕方が無いという考え方も可能だし、
一律に休みを増やさんばならぬ理由は無いと思う。
休めが増えれば国民が消費生活に走り、経済活動活性化、、
どうしてそんな単純計算で、国民の祝日を増やさなければならないのか。
お上のすることにはわからんことが多い。


学校現場では月曜日の時間割が減るので、別途時間割変更して授業。
教務的には、飛び石の方がまだ調整が「まし」らしい。
同じ曜日ばかり減るんじゃね。確かにそうだと思う。
非常勤講師の教員は拘束される割に、日当・実績交通費なので、
月曜日の時間割に入りたがらないとか。
昔のように月額制・年度制でないから、非常勤の人間は減収。
常勤の人間にはわからない所で、掛け持ちの苦労が増える。
時間割変更は致命的な減収の元につながる。


病院の診療だって、主治医制で掛かりつけ医が月曜しか来ない先生だったら、
何となく、不安が募ってしまうような気がするのは考え過ぎ?
いつも同じ先生が見てくれるクリニックや診療所でも、
連休・お盆・シルバー休暇も含めて休日が続くと不安になる。
もしものことがあったら・・・。
それほど休日診療所が整備されているわけではない。
縫うほどの怪我をしても、救急診療で不機嫌な顔をされ、
洗浄も消毒もされず、ガラス破片が入ったまま
ざっくり縫われた人間にとっては、不安が募る。
(医療関係者にも休みは必要だが、それ以前に交替要員・
 控えが確保できない体制の方が問題だろうし)


そういえば子供の頃、お祭りか体育祭の練習のとき以外、
時間割変更なんて無かったなあ。
お祭りだっていつも決まっていて、この日この日付。
岸和田のお祭りは敬老の日
そうインプットされて久しかったのに、今は違う。
休日がずれてから観光客が来ないからと、
祭日の方が移動してしまった。
・・・なんだかなあ。

京都のおばんざいセット

京都のおばんざいセット



来週のシルバー連休とかいう名称も誰が付けたんだか。
敬老の日にちなんでということかもしれないけれど、
お彼岸がそんなに沢山あるのも、興冷め。
というか、お盆から一ヶ月するかしないかでまた連休。
里帰りもいいけれど、迎える方も行く方も大変。
国民を無理やり民族大移動に巻き込んで欲しくないわ。


もっとも十分余裕のある人々は、海外に行くらしい。
羨ましいことだ。仕事やしがらみで出られない人間には。
9月に連休・・・、暑いからその方が骨休めになるのか。
いや、教育現場に9月の大型連休は致命的だ。
やっと夏休みボケから締めて、体育祭・運動会・文化祭など、
行事に向けて始動しなければならない時に、
長期休み仕様にリセットされてしまうから、
新学期からの労力が一気に無駄になる感じ。


子供と一緒に海外旅行。連休で娘と一緒に・・・。
ああ、そんな生活がしてみたい。
ちょっと○○まで。軽やかに飛んで行きたい。
祖母の葬式以来8年間、娘と飛行機なんて無いし・・・。
そう言えば敬老の日、いつも祖父や祖母に贈っていたプレゼントや写真、
身の回りの品、洋服の類は、一体どこにどうしまわれていたのか、
一見豪勢に見える部屋には見当たらず、
葬儀前後に寒々とした思いに駆られたことを急に思い出す。


それも、病人を抱えて過ごすすったもんだの家族の日常では
絵に描いたような美しい日々を演出など無理は当たり前。
余裕の無いやりくりの中でどこぞにしまわれ使われてしまったのだろうと、
今だから納得もし、諦めもつくけれど、
離れて暮らすとつくづく心が通い合わない親戚づきあいに、
哀しい思いを抱いたのも、敬老の日にかこつけて、
何がしかを送ることしかできていなかった自分の後ろめたさ、
やりきれない思いと直結しているから?


敬老の日と振り返ると、失った祭日、昔の思い出、
敬うべき年寄り、年配者との付き合い、そして、
何よりも大切にしなければならない両親とのすれ違い、
そんなこんなひずみが、いつしか自分と娘の間にも展開されるのだという、
暗い予感めいた諦め、不安に繋がるのかも。


敬老の日。決まった思い出を紡ぐのが難しい移動祝日の彼方へ。
9月の15日という何か居住まいを正したような、
カレンダー上での、暦の上での思い出の日は、遥か彼方へ。
手の届かぬ所に行ってしまった様な、そんな錯覚、
そんな思いにとらわれた今日。
昔、母にプレゼントし一蹴された老眼用の拡大鏡
それはどこにしまったか、自分のために探している。
15日の魔力。切なさ。痛ましさ。
9月もあっという間に半分過ぎた。
その中で、戸惑っている自分。