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初天神と菅公

本来ならば初天神の日。我が家が大好きな落語の初天神
落語は暢気なとっつぁんと息子のたわいも無い会話。
参道に並ぶ出店を物色しながらあれこれと江戸情緒を散りばめて、
噺家によって色々な話はあれど、小学生でも楽しめる落語だ。
しかし、このほんわか楽しい雰囲気に余りそぐわないのは、
祭られている天神様。「飛び梅」伝説で有名な菅原道真公。


天神様は梅を愛でるばかりが能じゃない、単なる学問の神様でもない。
元は怖い祟り為す神だ。雷神と一緒にされた祟り神だ。
本来神とは敬して遠ざけるもの、機嫌を損ねてはならぬもの、
畏敬を持って崇め奉られるべきもの。
元より存在する自然の神ではなく、人の身から神に昇格、
奉られるのは、それだけの理由があって然るべき存在。


天神様もとい菅原道真は、幼い頃から神童であらせられた。
「一を聞いて十を知る」博識の文章(もんじょう)博士。
その聡明さゆえに重く用いられ、豊かな才能を遺憾なく発揮、
大臣の位に上り詰め、今で言うところの自己実現の人生50年余。
つつがなく人生を終えることが出来れば、天神様にはならなかった。
これだから人の世は分からない。人生どんでん返し。
敵対勢力から妬み嫉みを買い、失脚の憂き目に。


学問に精進し、理想に向かって政治を執り行おうとし、
真面目であるが故に人の悪意や挫折に弱かったのか、
人を信じるが故に裏切られた時の嘆きはいとど深く、
配流同然の左遷中に妻が先立つ不幸を知り、後を追うように亡くなる。
帰京の願い叶わず、悲嘆の中に散った最期。
環境の激変に耐えられず、完全にストレスによる死。


政治の世界にはよくあること、「邪魔者は消せ」の鉄則。
権力が全て、力関係のすったもんだ。
清廉潔白、関係なく生きてきたつもりが、そうは問屋が卸さない。
災いは向こうからやってくる。(意識せぬまま招いている)
思い至らぬ所で巻き込まれて、意図せぬ展開。
驚き呆れつつも、嵌められて仕舞っては後の祭り。
一旦流されると、取り付く島も無い浮世の定め。
「何も悪いことはしていないのに、何故」と懊悩深き日々。
100%悪くないかどうかは別として、
ある人間にとっては、「存在すること自体が悪、許せない、消し去りたい」。
他者に無い生活・才能・地位は羨望の的。


菅原道真を陥れた側は、人をも羨む当時の権力者でありながら、
秀才の誉れ高き文官の存在を許すことができなかった。
天皇の寵愛と政治の中心は自分達にこそという願い、思い込み、
誉れ高き一族のプレッシャーのもと、権力者ゆえの横暴、強硬な手段。
泥の中に咲く蓮の花のように、美しいものは潰えやすいのか、
判官びいきの日本人に好まれる悲劇の主人公ゆえに、
その後の天変地異や疫病は、恨み持ち身罷った者の報復であると信じられた。
それ故、人から祟り為す神になった道真公。
まさか、落語の世界の借景に転じているとは夢にも知らず。


のんびりとした似たもの親子の会話で終始する「初天神」。
今は合格祈願の参詣客絶えぬ天満宮に鎮座まします菅原道真
温厚で聡明な学問の神様の裏の顔は、
自分の存在を受け入れなかった社会に対する
憤怒と怨嗟に満ちた報復の神。

落語 The Very Best 極一席1000 初天神

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しかしながら、物事には何でも裏表がある。
人生万事塞翁が馬。立場が変われば見方も変わる。
人生50余年、平均寿命の短い平安時代に才能を発揮して生きてきた人生。
これだけ生きれば十分でしょという気もする。
その陰に埋もれ、目立たず、比較され、自分自身に引け目を感じ、
何かと割に合わない思いで過ごした人も多かったろう。
光の強い所には濃い影ができるもの。
人間は優れた人間を理想として仰ぎ見、知力・体力を磨き、
自分を理想の世界に近づけようと憧れる者ばかりではない。


眩しい太陽に眩暈を起こし、涼しい風に寒気を感じ、
花束を愛でても活けず、野草を踏みにじることは更に厭わない。
自分の幸せを望んでも、人の幸せを共に喜ぶことは真っ平ご免の、
ある意味、正直で狭量な世知辛い劣等感に満ちた人間臭さを、
振りまきながら生きている人は一杯いる。
それを前面に出すことが自己表現の一過程だと信じている。
そんな人も珍しくは無い。


右といえば左、月にむら雲、ああ言えばこう言う、
何かと絶えず比較して、その差異に敏感というより過敏。
色んな生き方・生活があると頭でわかっていても納得できない。
いつも人が羨ましい、その思いに取り憑かれ、堂々巡り。
にっちもさっちも行かない、その先を考えられないという人は珍しくない。
今の世も何時の世も、理不尽だ理に適わぬというものの、
その「理」の基準はどちら側から見たものなのか。


責めを負わされる心のやましさは、何を基準に持つべきなのか。
違う立場から俯瞰すれば、裏表の関係であったり、
全くの平行線であったり、交わって離れていく、
如何ともし難い人の世の在り方、機微。
故に、自分が怒り狂う資格があると堂々と祟り為す神に変身出来る、
負のエネルギーの凄まじさは、人から与えられたものが降り積もったのか、
本来内蔵されていたものが反転しただけなのか。
どちらなのだろうと、ふと考えてみたりする。


引退をほのめかされても、でんと大臣の座に座っていた菅公は、
後輩に道譲る気も無く居座る権力者だ、張り合うつもりだ、
引かぬ奴だと敵視されるだけのものがあったのだろう。
相手にとっては威圧的な存在であり、煙たかったに違いない。
小ざかしい者達の御託など聞いておられぬほどの聡明さを持ち合わせていても、
人の世の心の機微には疎かったかも知れぬ。
唐歌やまと歌に長け、物事の造詣深きやんごとなき学者は、
凡人の目には風流なれど冷たきお方と映ったやも知れぬ。


梅の香待たるる如月を控えた今日この頃、
梅の香を愛でた人は、庶民のささやかな喜びを知っていただろうか、
四書五経を諳んじることなく日々の生活に追われる者の、
貧しいながらもその時その時の楽しみを知っていただろうか。
改めて問うてみることも馬鹿馬鹿しい限りなのだけれど・・・。
敬して遠ざけられた人の、距離を置きたいと思われた経緯を
死後20年以上経っても祟らずにはいられなかった自己顕示欲の強さを
面白哀しく、あれこれと想像する25日の夜。

詩人・菅原道真―うつしの美学 (岩波現代文庫)

詩人・菅原道真―うつしの美学 (岩波現代文庫)