Festina Lente2

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どんな画面で見ている?

付き合いの悪い人間かもしれない。
何しろ携帯を使わないのだから。
それで仕事ができるか? できていない部分もあるかも。
仕事用の携帯があるのならばいいけれど、
何もかもごっちゃになっている現状からすると、
とても携帯を使う気にはなれない。
目の前で、二つも三つも使っているお客さん。
本命用と友達用、親用とまあよくも持っていること。


それはともかく、我が家のケータイ。
家人から私用と持たされているものは、常に電源が切られているので、
全く使い物にならないのだが、もちろん非常事態用にたまには使う。
しかし、10年近い昔のもので、来年とうとう使えなくなるらしい。
修理もフォローも効かなくなるから、新しいのに換えるようにと連絡が来た。
カメラも付いていない、もちろんQコードの読み取りなんてできない。
TVを見る。ありえない。大体老眼に悩むお年頃なのだ。
ケータイの画面を見ることさえも厭わしい。
故にケータイでメールを送ることも無い。
受け取ることも無い。


パソコンの前に座らなければ、何の連絡も入らない。
何の繋がりも無い、受け入れない状態で生活している。
TVは地デジにもなっていない。ケーブルTVも無い。
我が家は私のノートPCだけで繋がっている。
ケータイでは世界に繋がってはいないのに、
私のノートPCはケータイと繋がっているらしい。
一体どんな画面で私のブログを読んでいるのやら。
いやはや全く想像できない。


それとも、慣れればどうということも無い世界?
若い人には当たり前の世界?
電車の中で、ホームで、道端で、喫茶店で、
私の小部屋はお気に入り? ブックマーク? アンテナ?
検索で波に乗ってやってきた板切れ?
何がどこで繋がって、誰と何処でどうなっているのか、
ちょっと驚いてしまう。

ケータイ白書 2010

ケータイ白書 2010


某社のケータイの宣伝は見ていて楽しい。
ちょっとしたドラマがあるのが面白い。
家族関係も人間動物年齢様々入り乱れていて、
斬新といえば斬新、SFのような、人権路線のような、
演歌や青春ものコミカルで甘酸っぱいもの、
様々な要素が含まれている、○○編、○○の巻CM。


時々アクセス解析を眺めると、どんどんケータイからのアクセスが増え、
かといってパソコンからのアクセスも増えているのだが、
この取るに足りない、いわゆる徒然草的な「よしなしごと」の世界に、
何を求めてくるのだろうと、ふと考えてしまう。
色とりどり形も機種も異なる様々なケータイが、
何を検索して辿り付くのだろうと。


検索する単語も、人気のある?記事もわかるところが面白いが、
企業ブログでもなく、アフェリエイとでどうこうということもしていないので、
おかしなトラックバックもないし、もしあっても消してしまう。
物欲のままにバナーを張ることもなければ、
自分の興味関心以上にお気に入りを増やすことも無い。
定点観測の如く、ROMの時代から眺めていた人々を訪問することはあれど、
それは自分の好きな作家や雑誌の動向を眺めているのに似て、
憧れや思い入れ、共感しやすい世界、もしくはためになる、
知恵袋であり読書記録や書評、見知らぬ街角、
それこそ「お宅訪問」的な楽しみもあるのだが・・・。


はてさて、この「我が家」に匹敵する場所に、
ケータイで訪れる人は何を見ているのだろうか。
何を見出しているのだろうかと、不思議な気持ちになる。
こちらが気分転換を兼ねて装いを変える画面も写真も、
ケータイでは味わうことはできないのだろうに。


検索で情報を取る人間には、機械でロボットが集めるという情報では、
そんな情緒めいた部分はさておき、記事の単語であり、
使用頻度の高い単語、タイムリーな内容、
必要に応じた部分だけ読めば、それで終わりなのだろうけれど。
ふと思う。
ケータイ小説があるらしいが、読んだことの無い自分にはともかく、
ケータイ向けの文章ではない、この世界をケータイから眺めると、
全くこちらが意図しない「読み取り」をすることもあるのだろうなと。


無論双方向的な繋がりというものは、
ケータイからだろうがPCからだろうが変わらないのかもしれない。
こちらの思っている以上に、特に思い入れもなく関係も無い。
繋がろうという核心がなければ、繋がっていることさえも意識しない。
繋がりそのものの意味も、通りすがりそのものの存在も、
人それぞれで異なる。


文章も記事も思いも、切ないまでに使い捨てにされ、
スルーされ、画面を一瞬通り過ぎていくだけの存在、
紙の本と異なりめくり返すことも、めくり続けることも、
手の感触の中にあるものではなく、
クリックする、スクロールする、その部分だけを読み飛ばす、
一瞬の電脳紙片の煌めきに過ぎないのだろうけれど、
その一瞬を、その一瞬が、こちらが思う以上に意味を成すことが
あるのならば、それはそれで、「読み取り」の、
読み手側の、受け取り手側の自由の中で繋がっているのだろうから、
こちらがどうこう思うことではないのだけれど。


小さな画面の中で折り畳み読み込まれる記事のそれは、
改行も段落分けもオリジナルとは程遠いそれは、
行間を意識してしまう自分自身の、書き手の感覚から離れた、
私の予想することさえできない「電脳紙面」を象っているのかと思うと、
ちょっとたじろぐ。少し鼻白む思いがする。
また、そんな小さな小窓から覗く世界の、
余りにも無数に開かれた小窓から、こちらに繋いでいるのだと思うと、やはり驚く。


ケータイを持たない人間、使わない人間は
雑誌の書面程度の画面にしか慣れていない人間には、
その余りにも小さすぎる小窓から覗く世界の膨大さと貪欲さに、
自分の加担している部分があるのかと思うと、妙な気分にさせられる。
おそらく情報を提供しているのではなく、
感情的な部分での繋がりを無意識のうちに求めてしまう、
読み手に対する書き手的な気持ちの裏返しが、
自分の知らぬ世界にあるのだと思うと、眩暈がする。


普通の、何の変哲も無い日記に連なる「解析」とやらの、
その向こうにあるものをたまに想像すると、
「繋がる」ことの意味を、読み、読まれることの意味を、
読み取りの枠組みの意味を、思わず考えてしまう。
こんなことをこねくり回して頭の体操をするのは、
気持ちが秋めいてきた証拠かもしれない。
「隣は何をする人ぞ」を詮索したくなるなど。

つながり 社会的ネットワークの驚くべき力

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友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

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