Festina Lente2

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消えもの

誕生日や行事日、ちょっとしたお出かけの際にもお土産は忘れない。
空手(からて)で人の家に出向くなぞ、とんでもない。
そう教えられて育った私にとって、高価なものでなくても
その日その時、その出来事にふさわしいようなもの、
ささやかな記念、思い出に残るもの、それはとても大切だ。
女性はそういう細かい記憶にこだわると、ウザったく感じる殿方も多かろう。


しかし、小さな思い出が生活の積み重ねの中では大切で、
ちょっとしたアクシデントや悲しく辛い出来事、落ち込みなどから
自分を勇気付け励まし、鼓舞するアイテムとなる。
(そしてそれが逆の場合も)
金銭的な大小でなくても、大切にされている、忘れられていない、
それがこだわりだと笑われようとも。


ただし、このような感覚も生まれや育ち、土地の風習や習わし、
家風で異なるという理由で相手にされないと、どうしようもない。
そしてそれよりも辛いのは、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」だったり、
「女だから」だったり、とにかく相手にされないことが辛い。


友達が遊びに来た時は一緒におやつ。そう親にして貰ってきた。
一緒に飲み食いする思い出は大切だ、お振る舞いは大事だと育てられた。
畑のものを引っこ抜いて、新聞紙に丸めて持たせる。
到来ものを開けて、お裾分けだと渡す。
両親のそういう姿勢を見て育ってきた。
誕生日、行事、お出かけ、ちょっとした心づけを頂き、過ごす。
お年玉や誕生日のお祝い、プレゼントやご祝儀然り、
それが当たり前で育ってきた。


なのに、「うちにはそういう習慣は無いから」とばっさり切られ、
年下の従兄弟たちの下に置かれ、誕生日を忘れられ、
年齢を間違われ、たまに会っても小遣いも与えられず、
祖父母の家に遊びに行くということは、半ば屈辱的だと、
娘が感じて帰ってきたことに、深く憂える。



周囲の話を聞いても、よくは分からないが、
「遠路はるばる」だったり、「孫や子」に対する気遣いが、
自分たちの感じている感覚と異なる場合、
親や祖父母にしてもらっていることと同様の扱いが無いことに
自分が知っている世間ばかりではないことに、
ようやっと気付いて来た、大人になってきたということかもしれないが、
それはそれで、随分楽しくない経験であることには違いない。


ことあるごとに男尊女卑的な物言い、扱いであったり、
小さいから子供だから必要ないだろうと差別されたり、
「やりとり」や「心遣い」の行ったり来たりが無いのを、
納得できない思いで、理不尽さで受け止めざるをえない、
そんな「付き合い」のあり方があることに、
疑問を感じるようになってきた、娘よ。


かーちゃんは、今日驚いた。
君の口からそういう言葉が出てくるとは。
かーちゃんはそういう言葉は知っていても、口にしたことは無かった。
何しろTVやドラマの中での専門用語の一つとして知ったくらいだ、
その言葉自身を。
小学生のかーちゃんが知る由も無かった言葉だ。


君はそれなりに期待して出かけたのだろう。
でも、君が期待したような扱いも無く、がっかりした。
かーちゃんも胸が痛んだが、それ以上に、ショックだったのは、
自分の生活と信条、子育てについての悲喜こもごもの感情。
文化風土の違う人間の間に生まれて、その間を行き来し、
そのギャップに思い悩む君の姿に、かーちゃんも申し訳なく思う。
また、何故なのか辛くも恨めしくも感じる。
守って来て貰えなかったことに。
フォローされてこなかったことに。


記念日も、誕生日も、訪問日も、小さな従兄弟たちの遊び相手も、
何もかも特別な日であるのにもかかわらず、何も無い。
身近にある者と、普段いない者との差異、
男であることと女であることの差異、
今日は、今回は、「特別」の記念の無いこと。
それは子供にとってどんなに心寂しいことか、
分からずに生活しているのか、わざとなのか。
その大人気ない仕打ちが続くことに、
目上から目下へのいたわりの無いことに嘆く。


そして、君が呟く。
出向いた先での扱いは、「消えもの」のみと。
その言葉を使った君に驚く。
小学生の君はどこでそんな言葉を?
「従兄弟たちに今更張り合う気は無いけれど」
娘一人の私への鍼のむしろは、
今はもはや、私にだけ敷かれているわけではなく。
私が一緒でも一緒でなくても、そういう扱いなのかと。


与えられない分、不憫な分をいっそうと、
甘やかしたかも知れぬ私が悪かったのかと。

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