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ビブリオバトル?

今日わざわざ出張で中央図書館までやって来たのは、この説明をきくため。
でなければ、ただでさえ時間に終われて忙しいこの時期、
こんな不便な所までやって来るものか。
本好きの人間には刺激的な言葉でしょ、「ビブリオバトル」。
いかなものかと興味津々。面白そうではあるが説明の時間が短かった。
というか、短時間で情報量を詰め込んで、解説者が創始者であるために、
わかっていることをわかっていない人間に話す過程に、まだ慣れていないよう。


やはり研究者であって教えることが本業の教員ではないため、
ポイントを絞って的確に話す、そういうことには不得手な様子。
身内仲間で喋るやり方をそのまま用いているため、
早口、かつオタクっぽい感じが前面に出て、
同年代の若者には受ける話し方かもしれないが、
ある一定以上の年齢には、気負いが勝って自己中心的とも取られかねない、
それが情熱の現れ方だとしたら幼く微笑ましい、
そういう力の入れ方のしゃべくりだった。
少し残念。ビブリオバトルの発想そのものは悪くないだけに。


そのビブリオバトルのHPはこちら
詳しく知りたい方は誤解の無いよう、こちらを御覧下さい。

熱い書評から親しむ感動の名著

熱い書評から親しむ感動の名著


いつから読書は私の生活から遠ざかってしまったのだろう。
最初の挫折は紛れも無く受験勉強。大好きな本を好きなだけ読む、
そういう時間が大幅に取られてしまった、物理的制約。
次の挫折は就職。これも、仕事が忙しく心が殺伐とし、
本の世界に無条件に没頭するという、そういうことができなくなってしまった。
職業的な必要性に駆られて読む、もしくは学生時代のように研究のために読む、
そういう読書は心の中にわくわく感を催さない。
或いは別世界に誘われるような興奮・刺激・陶酔感を感じられない。
まもなく、それが大人になってしまったから。
子供時代のように無垢に作品世界に溶け込むことなど、
もうありえない年齢になってしまったからだと気付くのだが・・・。


そしてもっとも直近の読書離れの原因は、老眼。
読むのに眼鏡を掛け換えなければならない、その煩雑さ。
更に、残り人生を考えると読まなくてもいいやと思える本が増えたこと。
世界の名作文学の基準は、自分が生きて半世紀もすれば随分変わっただろう。
それどころか、インターネットの電子読書の時代、紙の本にこだわる私は、
時代に取り残されつつあるのかもしれない。
しかし、ケータイ小説を読もうとは決して思わないし、
持ち運びに便利だからと何十冊も電子書籍を携帯しようとも思わない。


しかし、本を読んでも、その面白さを身近に語る相手がいない。
それが最も大きい読書離れの原因かも。
高校時代の図書部、読書会の楽しみ、友人と語る書評三昧の時間、
そういうものから遠ざかってしまったせいだろう。
読書メーターに載せる感想は、ビブリオバトルが目指すような、
本の魅力を語ることを中心とはしていない。
あくまで覚書程度のメモ、感想、その時気分、走り書き。
(もっともそうではなく、もっと真剣に書いている人もいるだろう)
ただ、あくまでも読後の感想や感慨を散らし書きしているだけで、
ツィッター的な発想で書いているといっても過言ではない。


ビブリオバトルとなると、話は別だ。
知的な戦略に加えて、その本に対する愛情や熱意が必要になる。
読書における本の感想は、そこまで求められてはいない。
この本を人にも薦めたい、そういう気持ちを保ち続けるにはエネルギーが要る。
本を通じて人と繋がりたいという隠れた願望や欲望、熱意が要る。
そういう純粋な動機を保ち続けて生活しているような、
そんな時代はとっくに過ぎ去ってしまったので、今更という感がある。
そう感じてしまう自分に残念無念な思いが噴出してくるのだが、
本当だから仕方が無い。
私に本の魅力を語る、愛読書を語る資格は失われて久しい。
そう感じて仕方が無い。


だから発表者、講師の思いは理解できるものの、
若々しい感性が理論武装したという雰囲気。
講演そのものが少し尻切れトンボに終わってしまって勿体無かった。
ビブリオバトルにおける様々な次元の情報の共有を、
従来の機械的な知的情報の増量、付加価値に終わらせて欲しくない。
読書体験を介在化させた人間的なコミュニケーション能力促進、
今失われつつある「知的かつ直接的体験を共有する場」の確保、
双方向的で臨機応変に反応する個人的な背景に基づいた情報交換の
素晴らしさについて共感を呼び覚まし、
納得させられるような力説にまで至らなかったのが残念。


一度読んだ本について聞くのは時間の無駄、出来るなら
読みたいと思える違う本についての思いを込めた解説、
読み込む力と語る力の拮抗した優れた情報が欲しいという、
ビブリオバトルの場に対する思いの表出が、
ついつい口が滑ったのだろうが、そこに引っかかってしまった。
情報摂取における貪欲な願望をあからさまに述べるはしたなさを、
講師のストレートなものいい、素直な若さの表れと、
甘んじて受け取ることが出来なかった私だ。


誰だって「つまらない本」は読みたくないし、時間を取られたくない。
知っていることを何度も聞かされたくないでしょ、と
大勢の年長の聴衆を前にさらりと言ってのける無神経さと大胆さは、
まだ私の年齢では許せない傲慢さの現われに感じられた。
彼の宣伝するビブリオバトルは、その希望通り、既に検索トップに上がる。
しかし、そのHPはいささか構成上読みにくいし読みづらい。
シンプルさを信条としているのかもしれないが、
余計なものをそぎ落として、必要なものだけを摂取しようとする、
「知的書評合戦」という、知情意を背景にする読書の場設定として、
熱く語りながらも、何かしら別の思惑を背景に感じてしまい、
何かそぐわぬもの、違和感で素直に頷けなかったのは確か。
もっとも、このバトルの勝者は話者ではなく、
最も読みたいと思われる「本」であるのが救い。


草食系男子なるものが騒がれる昨今、自分の意思を露骨に出すのを嫌い、
自分らしいという自分を偽装する世の中。
自分自身を前面に出すのではなく、自分が読んだ本の素晴らしさを、
熱を込めて語ることをよしとする、このバトルは、
自己表出の屈折した安全圏確保に、一躍買っているのかもしれない。


ちなみに、小6の娘に概要を更にざっくり話すと、
このビブリオバトルに興味津々、出てみたいらしい。
ほう、さすがに今一番本が好きで読みたくて浸れる年代らしい反応。
「この本のここがいいんです、好きなんです」と語れる、
その本を持ち、語りたいというエネルギーを持っている娘が眩しい。
今日の話を聞くには、私は少々年を取りすぎたのかもしれないと、
そんな風に思ってしまった図書館の一室の午後。

読んでいない本について堂々と語る方法

読んでいない本について堂々と語る方法