Festina Lente2

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被災地に飛ぶ老父

老父にとっては切実な問題。故郷とどのように距離をとるか。
60年ほど前に離れた、それも「すんぴたのばっち(末っ子の末っ子)」。
田畑を分けて貰えない大勢きょうだいの中でも最も末っ子。
長姉は生まれた時に末に嫁いでいて、甥っ子の方が年長者。
そんな父が、たった一人生き残っている姉と、その他諸々の親族を見舞いに、
記憶が抜け落ちた母を私たちに預けて、半年遅れで出向く故郷。


あの時あの日、あの後で「仙台に飛ぶ」といって聞かなかった、
老父に空港が押し流されている様子を見せた後でも、
飛行機に乗れば故郷に飛べると思っていたうろたえようが、
冷静さを取り戻すには時間が掛からなかったとはいえ、
再開された、全面開通したといっても仙台は、仙台空港
もう元のままではいられない、故郷の玄関口になってしまった。


結局は時間も人も仕事も、人情さえもお金で解決の部分が、
どのように受け止められるのかわからないけれど、
私たちのルーツが東北にあることは否めない。
2世で、故郷を、その土の味をこの体にしみ込ませた訳でもない、
そんな人間でもそこはかとなく懐かしい思い出を持つ。


であれば、野山を駆け回り阿武隈川の流れを見て育った、
蔵王の雪と風に晒された、丸森線の電車に揺られた、
米沢の雪に囲まれた、老父の幼少期と青年期は、
私の想像など及びも付かぬ思い出。
老父の心の中は何かではち切れそうになって、
この半年を過ごしてきたに違いないので・・・。


私は運転手になって、駅まで送るだけで精一杯。
夜明けに送り、朝食を作り、仕事に出かけ、
なかなか懐かぬ実家の犬の餌と、留守を守る家族の食事を作る。
洗濯物を干す。必要最低限の家事をこなしながら、
お洒落などせずとも、それなりに過ぎていく毎日。
化粧などいつの日から忘れてしまったか。
お手入れはこれ一つ、そして日焼け止め。


今頃老父の歩く道は? 幸いなるかな親戚の家は高台。
されど、同じ町内の海岸沿いは全て流されてしまった。
1日、何の連絡もなく過ごす夜。
私たち家族は、家人を除いてケータイを持たない。
のべつまくなしに、連絡をすることもなく、
頼りがないのは元気な証拠。どこにどうしているか、
「ついたよ」「泊まっている」「みんな元気」
電報のような会話のやりとりが続く。


東北、宮城県。観光カレンダーが掛かっている実家の壁。
ここに写された美しい景色や、有名な郷土の祭りは、
今年は取りやめになったに違いない。
そんな思いで眺める、数々の写真。行事の説明。
「お米大使」のお役目も今年はどうなるんだろう。
そんなことを思いながら、老父の1週間を思いやる。


傘寿を過ぎて出向く荒れ果て故郷の空を、
自分の目で確かめずにはおられない、それはそうだろう。
私の知らない父の思いを、投影するように、
父の目を通して青空に映し出して貰ったとしても、
同じ思い、同じ気持ちにはなれない。
だからこそ、留守を守るだけ。
何故、父がここに今日いないか、
すぐに忘れてしまう、老母と共に。

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