Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

秋の電脳玉手箱の前で

それはそれ、間遠になるもの。
ふと、そんな声が響く。
それはそれ、そのようなものと。


日記というものは個人の記録なので、興味関心を引くのは
その人の心や生活の振幅の広さだと言える。
話題性? 記事の内容がずっと同じもので、
それが自分のツボにはまっているならば、楽しい。
もしくは勉強になる。面白い。ためになる。
蘊蓄の宝庫。おお、こういう考え方もあるのか、なるほど。
素晴らしい、こういう世界に浸りたかった。癒される。
わははははは。ひたすら笑えたり。


色んな記事があってもいいのだが、それはそれ、
当然訪問したくても全く消えてしまった記事もあれば、
何故、こんな記事をいつまでも書いているのだろうと不思議な所も、
毎回読んでも飽きの来ない(失礼!)、ご飯とおかずのような関係、
連載ものというわけではないけれど、脈々と流れているものが、
読んでいて自分自身の内部のどこかにいい意味で「ひっかかる」、
「残る」と意識されるので、目が離せない、訪れる。
時にはコメントしたくなる。(しない場合も多い)


つかず離れずのお付き合いというものは、現実の世界でも難しく、
人間だもの、興味関心が常に一定しているわけではなく、
余程のことがない限り、趣味も話題もそれなりに拡散していく。
新しい出会いがあれば、疎遠になることもあり、
その「フェイドアウト」をこちらから嘆くのも筋違い。
電脳玉手箱の世界で「袖触れ合うも多生の縁」でいることは、
実際のお付き合いのように気遣いもすれば、遠慮もある。


かと言えば、顔の見えない分、
大胆に語ってみたり、はしゃいでみたり。
必要以上に落ち込んでいる姿を残してしまって、
困惑させたり、させられたり、
それもまあ「お付き合い」あってのことと、
不特定多数であるはずの世界の向こうに、
何だか気心知れた、勝手知ったる人々がいてくれるような、
待ってくれているような、そんな錯覚もよくあることで。


現実には会ったり話したり出来ない。
思っていることをそうそう口に出したりはしない。
私は古い人間なので、見知らぬ人との文通などに憧れた、
最後の世代に属するかも知れないので、文章を綴るのは好きだ。
しかし、誰もが思いを語るためでもなければ、
連綿、縷々として、したためるわけでもない。


覚え書き、メモ、スクラップブック、そんなブックマークの連続。
ツィッターに観られるような電光石火の呟きの連続。
その思考の変遷と言うよりも、だだ漏れの中から、
価値あるダイアモンドを掘り起こすのが楽しいという人もいれば、
私のように、そんな時間は勿体ないと思う人間も。
そう、私自身は人の呟きではなく、その人となりを示す世界が
ある程度のまとまりを持って存在することに興味がある。


気まぐれの連続で、訳のわからない情報発信に付き合う余裕は無く、
ある一定の余裕を持って、距離を持って、世界の広がりを、
その裾野を歩き回ったり、覗いてみたり、少し寄り添ってみたり、
同じように眺めてみたり、そういう時間を共有できるのかも知れないと、
そんなふうに感じながら電脳玉手箱の中に浸るのが好きだ。

映像から音を削る 武満徹映画エッセイ集

映像から音を削る 武満徹映画エッセイ集


自分が思っていることが、目の前で文字になっている画面を見ていると、
それこそが精神安定剤のように、確たる現在を示しているように感じる。
しかし、残念ながらそれは、長い長い文字制限のないツィッターと、
何ら変わることがないではないかと言われてしまえば、
そうかも知れないと思う。完全に否定することは出来ない。
だからこそ、そこはかとなく書いているうちに
一つのまとまりになって欲しいと常々思う。


下書きは、余りしたくない。
出来れば速攻、完成品とまでは行かないまでも形を作りたい。
下書きをしないまま、文章を書くななんて無謀。
ある程度寝かせないと、ね。
確かにそれは一理あるのだが、生きのいい魚のように、
臨場感溢れる思いを書くためには、書きたい時には、
下書きにこだわってはいられない。


しかし、それさえも出来ない時がある。
書けない、物理的に忙しくて書けない。
書く時間がない。物事を考えながら画面を見つめる、
そんな時間が、早朝や深夜しかない時、
最近は年のせいで睡眠時間を優先させている。
今、この仕事に関わっている間、入院だのすることは出来ない。


今、当たり前に、家族の中で「かーちゃん」でいること。
娘にとってはだんだん頼りなく見えるかーちゃん。
それでも、美味しいご飯を創ってくれるのはかーちゃん。
そんな存在であり続けたい。
もちろん家族の誰のためにでも、美味しいご飯を創るかーちゃん。
(掃除と片付けは下手。そんな時間があったら寝るか食べる)


かーちゃんは、雑学の塊になって仕事をするので、
かーちゃんらしく見えない時間の方が長い。
だからこそ、電脳玉手箱に向かう時、
ほんの少し自分の輪郭が見えたような気がする。
それは、ごくごく自分の一部分、限られた部分だと知っていても。
そして、それは人様もそうなのだということを知っている。


だから、間遠になっても疎遠になっても、フェイドアウトしていっても、
時折思い出したような訪問であっても、それはこの世界では当たり前、
ごくごく何の変哲もないお付き合いの形なのだということを、
知っていてなお、ただただ、お近づきであることが嬉しい、
何らかの繋がりがある(ように感じる)ことが、
有り難い、落ち着く、そんなふうに思えることが、
「幸いなるかな」の世界。


どこにも行けず、ただただ、仕事の合間に開く、
その美しい野山の、公園の、異国の景色の向こうに、
カメラを覗き、文章を綴り、語ってくれる人のまなざしや、
言の葉の響きを心に留め置きながら、過ごすひととき。
電脳玉手箱はバーチャルでありながら、リアルである。
いにしえの人が、遠くからもたらされる文(ふみ)を土産に思い、
書物の世界でまみえることが出来るのを、出会いだと思えるように。

京暮し (暮しの手帖エッセイライブラリー)

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