Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

見守り手であること

親として果たさなければならないことは沢山あれど、
実際側にいて、見守らなければならないことは山ほどあれど、
ある程度まで子どもが大きくなってからはかけ声ばかりで、
最初から最後までじっくり横で見守ってきたことなど、
どれほどあっただろうかと、我ながら首を捻ってしまう。
保育園時代は一挙手一投足をいとおしみ、
その試行錯誤を、少しずつ人慣れ物慣れし、
角が取れてなめらかになりつつも、個性と子どもらしさが、
何とも言えぬでこぼこを表現しているような、
そんな子どもの世界に、どれほど癒され、或いは苛立ち、
それでも側に寄り添うことを厭わずに来たことか。


なのに、小学校に入ってからは、全てが早く、速く、急いで、すぐに、
もっと短く、短時間に、短期間に出来るようになることを期待し、
急いて、せかして来てしまった。
「這えば立て、立てば歩めの親心」以上に贅沢で我が儘な親として、
ただただ口を出さず手も出さず、適度な距離で、程よき位置で、
きちんと見守り通してきたことなど、本当にあったのだろうか。
自分が人間として、そこから逃げずに向かい合ってきたのかどうか、
今もってはなはだ疑問。考え出したらきりのない事とはいえ。


だから、研修の場で「見守り手」として機能し続けるのは、
限られた時間の鍛錬だから、余裕を持って出来るだけのことをする。
されど、本当に実生活上でこのような時間が、空間が、
時と場合、シチュエーションが必要とされているというのに、
日常だからと荒くたく扱い、いい加減に取り扱って来てしまっているのでは。
忍耐力も受容も許容もあったもんじゃない、冷たいまなざしで
「まだ出来ないの」「何しているの」「意味ないじゃない」と、
批判・批評し、差異化・差別化・序列化を行って、比較し、
挙げ句の果てに「そんなんじゃお話にならないと」拒絶してしまったことなど、
山ほど在って数え切れない。


「見守り手」であることは期間限定、仕事の一部としてなら成り立つものなのか。
仕事上、そう在らねばならぬ事は沢山あるけれど、
この年にもなると、慣れも手伝い、半ば絶望感や諦めもあって、
肯定的な受容の精神でもって見守りつつ側に寄り添うことなど、
建前でしかないことも良くある話で。
しかし、一人の人の子の親としてならばどうよとなると、
情けない限りの「見守り手」。直視することから逃げている、
自分の無意識の中では避けているのではないかと思うことが多々ある。

愛は見守るテクニック―愛の基本形

愛は見守るテクニック―愛の基本形

凡人として生きるということ (幻冬舎新書)

凡人として生きるということ (幻冬舎新書)


親に言われたくないことを、娘に言っている自分。
かつての自分が絶対に置かれたくない状況に、娘を追い込み、
言葉尻を取って目ん玉を三角にして怒鳴り倒していることも、しばしば。
ほほえみながら、安心感を醸し出せるように、
そんな気持ちで子どもに寄り添えたのは、小学校に入るまで。
物心が付き、人間としての目鼻立ちが出来、親子の間の親密な情が薄れ、
第1時期の反抗期はそれほど大きくなかったものの、
子どもと自分とが全く別の人間として成長していくのを、
日々目の当たりにしながら、「見守り手」であることは、
何と難しいことなのだろう。難しすぎる。


自分の身から生まれ出でた我が子でありながら、自分自身ではない。
似て欲しくないとkろおばかり似てしまう、それは遺伝子のなせる技、
いや、きっと生活環境のなせる技なのだろうと思うと、
地団駄を踏みたくなるほど悔しいのだが、改善する術を持たない。
いつも壊れたレコードが同じ溝を削られ続けているように、
間違った望ましくない行動を取ってしまう。
こんなことは言いたくなかった、言ってはいけなかった、
そういう行動にばかりはまってしまう。


なので、研修の場で時間限定の自分の役目を果たして、
「さすがは見守り手だけのことはある」とお褒めの言葉を頂いても、
胸の中には歓びや達成感よりも、娘に対する申し訳なさや情けなさ、
親としてなかなか機能不全であるなあと嘆息する思いが往来。
「見守る」と世間では簡単に言うし、「せかしてはいけない」
「待つことが大事」と言うけれど、実際はなかなか出来ない。
自分自身がそうなのだから、頭ではわかっていても出来ないのだから、
そのツケがこれからどうなるのだろうかと、想像するだに恐ろしい。


学びの場で学んだことは、実践で生かされなければ夏炉冬扇。
そう思う度に、ため息ばかりが漏れる。
学びの時間を持つ時、自分だけの時間を取る時、
子どもからも家族からも離れて、自分らしく学んでいる時、
ふと我に返ると、これでいいのかと後ろめたくなるのは何故?


充実感は束の間、我に返ると「何が出来ているのか」
「何をやって来たのか」と、もどかしくなることばかり。
無い物ねだりではなかったはずなのに、信念の弱き自分、
流されやすい自分、短気な自分に苛立つばかり。
見守ることは難しい。見守り続けることは。
そこから目を話さずに、逃げ出さずにいることは。

エンジェル・ブック―あなたを見守る天使の事典

エンジェル・ブック―あなたを見守る天使の事典

傷つきへの心理的援助 学校にできること―支援する心、見守る心への関わりをふくめて

傷つきへの心理的援助 学校にできること―支援する心、見守る心への関わりをふくめて