Festina Lente2

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大晦日なれど

晦日なれど、自分のことだけで終始している。
娘は自分で自分のことをしてくれればいいのだが、そこは子供の悲しさ。
蹴飛ばさないといつまでも寝ているし、タイムスケジュール、
時間管理が出来ない。何しろ予定表に漫画の発売日しか書かないのだから。
子育て失敗を実感している2011年が終わろうとしている。
仕事にかまけて子育てを放り出した自分の付けが、痛いほど回ってきた、
そんな1年とも今日でおさらば。またエンドレスバトルの日々が始まる。


出来ないことをやれといっているのではなく、出来る範囲で頑張ればいいのだが、
それは私の断捨離とダイエットと同様、絵に描いたもち、
不可能この上ないこと限りない。
そんな娘の悪戦苦闘の始まりにしか過ぎない、現実との取り組みを見ていると、
DNAの為せる業の恐ろしさに改めて呻吟せざるを得ない。
「どうして似て欲しくないところばかり似るんだ!?」
我と我が親もこのように思ったことがあったのだろうか?
それとも全然似ていないと呆れ果てていたのだろうか。


じゃによって、それじゃによって、大晦日なれど、
いつもと変わらず一日が過ぎていく。
娘は自分から起きては来ないし、両親は用意してもしなくても、
偏ったものしか食べず、畑で作ったものは人にあげてしまう。
自分たちは「年寄りだから食べられない」と。


家人は元より掃除する気もなく、年末の買い物とてとても。
私は2件分の家を維持するパワーも失せ、どちらの家でも、
家政婦の如く掃除をする気力を失い、何もせぬ年末年始、
徹頭徹尾、自分の時間を使うことに決めこんだ。
仕事に時間を吸い取られ、かさかさ干からびていくのは、
心の潤いを失った自分自身ではなく、生活そのもの、
「荒れ」は肌荒れではなく、心と生活の荒れ。


かわいいだけではすまない子供の扱いに、
励ますよりも蹴飛ばしたくなる日常がエンドレス。
ほんのけじめの年末も、形ばかりの飾り付けで、
行ったり来たりの移動に費やす別居結婚家庭は、
共に過ごす時間を「家族らしく」過ごすことさえも、
気力体力の向こうにあるとわかっているだけに、
かーちゃんの減速は、衣食住全ての機能停止に繋がる。


自分の居場所を見つけるためのモチベーションを、
娘自身が模索し築き上げないとならないのに、
単にたまたま見つけた居心地が良い儚いものに、
しがみつくことを覚えてしまったからには、
あれもこれも色んなことが、九十九折の山道の向こうだ。
自分の仕事は転勤がない限り、こなすだけのルーティンワーク。
とーちゃんも転勤がない限り、いかに積み重ねていくかの
ルーティンワークの大人の世界。


晦日。紅白を揃ってみるという、そんなことに執着する限り、
何も新しいことは出来そうにないなと思ってしまう。
陳腐で、お決まりの毎日を過ごす。
形だけ整える。それで、新年。
ただ、大きな災害にもあわず、不治の病にもかからず、
3人揃ったことをありがたく思おう。


一人で考え、一人で動く。
そういう生活に慣れていると、二人でいることのありがたさより、
身動きの取れない不自由さに目がいく。
三人になると、自分ばかりの時間が吸い取られて、
この三人の世界をどう維持するのか、煩わしさにくたびれる。
なのに、独りになると限りなく寂しい。
このどうしようもない家族の構造の中に巻き込まれながら、
また、2012もやっていかねばならない。


元朝参りをしようという家人を突っぱね、寝ることを選んだ大晦日
徹夜明けの人間に、元朝参りは無理。
ごめんよ、とーちゃん。
体は一つ、やりたいことは沢山。
君たち、ご飯は材料がないと作れないんだよ。
材料があっても作れないときもあるけれど。
家族はそれと似ている。
頭数が揃っていても、何も出来ないときもある。
したくない時、してもしなくても同じ時。


お正月はお正月を迎えたいという気持ちを持たないと。
かーちゃんだけでは何も出来ない。
物事は、準備段階が実行よりも大変なんです。
さらば、2011年。何も準備できずに年神様ごめんなさい。

大晦日を笑う『世間胸算用』 (西鶴を楽しむ4)

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老いへの不安 歳を取りそこねる人たち

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