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教科書の日

本日は教科書の日、というのだそうだ。
良い図書の日で、4月10日の語呂合わせ。あれまあ。
色んな記念日があるものよなあ。
で、娘が中学生になったから教科書を見せてもらったら、
これがまた大判ででかいのなんのって、重いだけ?
字がでかいだけ? カラーページが多くて説明が少ないのでは。
イメージ戦略もいいけれど、何だか違和感。


そう、いまどきの教科書は大判。しかし、国際規格に合わせて、
プリントをA4にしたり、A4判を遣うことよりも、
狭い日本に貢献すべく、小さな版でかまわないと思うのだが。
昨年までは薄くてでかい教科書だったのよと同僚。
何でも、指導要領の追補版の方が分厚くてでかくて、
去年まで習っていたことは何だったのよと、口から炎を出して怒っている。


そう、中学生の長男を持つ彼女にとっても、入試制度があれこれ変わる、
教科書内容があれこれ変わるのは、迷惑千万なこと。
おまけに中高一貫をうたっている私学や国立公立の特別なカリキュラムを持つ、
いわゆるエリート校の扱う教科書は、中身が違う。
豊富な補助教材に加え、進んだ内容、詳しく高度な内容を載せた教科書。


そう、教科書会社は何種類も教科書を作っている。
易しいレベルと難しいレベル。(まあ、昔の教育を受けた人間からすると、
難しいレベルの教科書も? と思わないではないが)
公立の中学校は最低レベルだと悪口をたたかれ、
最低限のことしか教えないから入試には太刀打ちできないと、
通塾人口に拍車をかけ、みんなでもたれあって歪んだ教育産業を生み出し、
その只中にあって教科書はいったいどんな存在だと。
小学校の教科書レベルでは受験なんか、無理だと言われ久しく。


むろん、学校現場は「教科書を」教えるのではない。
「教科書で」教えるので、何をどの程度まで教えるか、
教科内容にするか、授業レベルにするかは現場の裁量と相手次第。
それでなくても中学受験の内容は、すでに中2レベルの内容で、
小学生が勉強する範囲をとっくに超えている。
だから、公立の中学校では退屈な生徒はますます何もしなくなる。
公立や飼い殺しの学校、伸ばす力の無い学校と陰口を叩かれている。


そんな批判の只中で、教科書の日。
どんな風に選定され、どんな内容が書かれているのか、
歴史や地理は私が習っていた当時とはずいぶん違うはず。
娘が習う内容は、いったいどんなものだろう・・・。
国語に至っては、大阪版の便覧が付いているがこれは?
この副読本は全国版ではなくて、義務教育だから地方版?


小学校の時、地理歴史は全国レベルと同時に郷土史も含まれるから、
それはそれで違和感は無かったが、国語の便覧で大阪版というのは?
まさか、大阪検定を受けるわけでもあるまいに。
いずれにせよ、娘の頭には教科書で学んだこと以上のものが
順調に詰まってくれることを望むのではあるが・・・。


昔、真新しい教科書を貰ったばかりのその日、
一日で国語の教科書など読んでしまって、
新しい読み物が、本が欲しいなあと思っていた頃など、
読書欲に燃えていたのは、往時茫々の遥か彼方。
教科書を目新しい最新の読み物同然に目を通していた頃が懐かしい。
今では積読書に囲まれて、書類に目を通すのもうんざりで、
老眼にかこつけ高尚な読書からは縁遠く、
暇な時は軽い読書と漫画にばかり走る、
本を読み漁ることからは程遠い日々、
ろくでもない人間に成り下がってしまったが。


教科書の日、ねえ。
「学校関係者だけでなく、広く社会一般の方々にも、
教科書の役割を認知していただくとともに、
教科書関係の仕事に従事する者が、
その社会的意義と責任を再確認することも目的」ねえ。


その1年間の教科書を終えることもできない、
中途半端にしか教えられない、そんな教師と
予習復習なんてとんでもないケータイに明け暮れる生徒の現場。
教科書はどこまで活躍できるのかなあ・・・。
教科書を作っている人の思いは、現場の教師や生徒に届いているのかなあ。
そんなことをちらりと考えて、入学したばかりの娘の中学生活を思いやる。


教科書よりも便覧というものを眺めていたほうが、
盛り沢山で楽しそう。
私が中学生の頃はこういうものは無かったな。
ちなみに便覧は教科書ではない。副読本。
主食よりおかずが美味しい、そんな献立の「教科書+アルファ」のよう。

理想の国語教科書

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教科書に載った小説

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