Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

白隠展とくじら屋

(写真は全て大きくなります。24日の写真もアップしました)
2日間で6時間ほどしか寝ていなかったので、
気が立つことこの上なく荒々しい猫のように、
フーフーしながら上京した翌日。
職場に行かなくてもいい、仕事をしなくてもいい、
ついでに家事もしなくていい? 
朝寝坊のできる午前中を堪能する。


  


こういう親の元で規則正しい生活を娘にさせることは、
非常に難しい。ただでさえ起きてこない娘なのに、
目覚まし時計代わりの母親が壊れている年末29日。
結局のところ、年賀状の続きを書く午後。
8時まで開いているという渋谷の文化村まで出かけ、
家人推薦の「白隠展」を見る。


  


奇怪で軽妙洒脱、禅の教えを絵で表現。
説教を絵解きで、ユーモアと皮肉、怒りと諦観。
温かみがあると言えばある。
その温もりも、神経質をごまかすための着膨れた、
学と宗教と年相応の嗜みでオブラートにくるまれた、
洗練されたものだからこそ、「一般人受け」する。



「通」でなくてもわかるように作り上げること。
そういう演技や技を持つことが出来た人なのだ、白隠は。
わかる人にしかわかって欲しくない、そういうスタンスでは、
自分の仕事は成り立たぬ、そういう割り切りを抱ける人だった。
だから、仕事として絵を描いて、心を込めて鬱憤を晴らし、
怒り、嘆き、哂い、言葉を添えた。そんな気がする。



絵の中に隠れることで強烈に個性を打ち出す。
何よりも、言葉で一方的に解釈されるよりも、
解釈の幅が広い絵で、的確に表現することもできれば、
曖昧にごまかすことも出来る。
解釈はご自由にと相手の力量に委ねることも。
その作品の中に、自分を潜ませ相手の出方を、
間合いを計る。そんな巧みな駆け引きを持つ、禅画。


白隠 (別冊太陽 日本のこころ)

白隠 (別冊太陽 日本のこころ)

白隠禅画をよむ―面白うてやがて身にしむその深さ

白隠禅画をよむ―面白うてやがて身にしむその深さ


渋谷も久しぶり。娘を何度かNHKに連れて行って以来、
7年ぶり? 何だか別世界だ。
文化村自体も名前だけは聞いていたものの、お初。
(本当は夏に出かけるはずだったのに、駄目になったいわくつきの場所)
白隠展、それだけでも十分に見応えのあるものだが、
映画・美術展というものは難しい。


  


何が難しいかというと、私のような人間は一粒で二度美味しい、
そういう貧乏性ゆえ、わざわざ出向いてきた所で、
何ゆえ一つしか鑑賞せずに帰るのか、
貴重なお出かけを無駄に? と思ってしまう。
超貧乏症な性格と行動パターン。


  


そして、情報過多と過労で溺れる。
若い頃と同じように吸収・肥やしにするような、
空きスペースが心身ともに有りはしない、
時間も心も汲々として、余裕が無いところに、
更に詰め込みたくなる自分に気付いていながら、
倒れて後止むまで止まらない止められない自分。



相方はのんびりしたら良かろうと思うのだろうが、
「のんびり=充実」という構図にはならないらしい。
体型的にはぐうたらのぽっちゃりの私は、気質だけはタイプAで、
白隠展と同じ会場で別の展示があるのに、
何ゆえこれ一つだけと思ってしまう哀しさ。
ゆとり世代ではない詰め込み世代の性なのか。
毒を食らわば皿までの勢いで何かを吸収しないと、
次の機会などいつあるかわからぬと、
そのことにのみ心がとらわれ落ち込む体質・気質。


  


白隠展を堪能しながら、帰りしな、掲示されている
現代の名工 山口安次郎作 能装束遺作展
見ることが出来なかったことが心残り。
次はいつあるかわからない、この焦り、この焦燥感、
仕事に囚われ、みたいもの聞きたいもの知りたいことを、
諦めながら生活していることの苛立ちを、
夏炉冬扇の如き物に執着すると親にも嘲られ、
家人にも理解して貰えないだろうこの渇きを、
どのように説明していいものやら。


 


来る途中目を付けた店に入る。
ランチではないから無論お高い。
せっかくなので、美味しいものを、普段食べられないものを、
一緒にという気持ちで食事に望む私と娘なのだが、
家人は3人居ると、3倍掛かることにいつも気を取られている。
家人は家人で一人で居ることに慣れ過ぎてしまっている。
自分独りで行動し、自分独りで楽に好きにできることに。


 


週末ごとに行ったり来たり、程よい距離。
多少離れてはいてもリズム感のあった生活から遠ざかり、
少なくとも共に生活する時空が離れると、
小さな亀裂は何倍もに広がる。
その亀裂に気付かないように、神経を尖らせている娘。
共に飲む相手も見つからぬまま、慣れぬ職場で仕事を続ける家人。



あれもこれもと望まれ「できません」と言えぬまま、
実際は「したくない」という我侭など通らぬ仕事社会の反動を、
夏炉冬扇に求める自分の不安定さに、
年は取っても本質は変わらぬ、
場所は変わっても相手は変わらぬ。
誰にぶつけていいかわからぬまま、夜が更ける。

白隠-禅画の世界 (中公新書 (1799))

白隠-禅画の世界 (中公新書 (1799))