Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

鉢植えの朝顔

先日 上京した際、入谷の朝顔市を見た。
当たり前の話だが、全ての朝顔は鉢植えで売られている。
もっとも昔のように落としたらすぐに割れてしまう、
重たい本物の素焼きの鉢ではなく、軽量化されたものだろう。
でなければ、持って帰るのは大変だ。
むろん宅配サービスもされていて、安心。
だからみんなあれこれ物色して恒例行事、
季節のしつらえ、日常生活の一部として買うのだろうが。


朝顔は鉢で育てるものなのか。
そうだったか。
そうであったかと改めて、びっくり。
というか、それが当たり前の時代なのだと感慨も新た。
朝顔をどこに植える? どこで育てる、どこで咲かせる?
土がなければ、地面がなければ花は育たぬ。
当然、当たり前と言えば当たり前。


みなさん、朝顔の鉢をお金を出して買ったことがおあり?
私はありません。
少なくとも、小学校の時芽が出たばかりの、
もしくは双葉の状態のものを持って帰って、
地面に植え替えた覚えはある。
何しろ理科の観察日記を書かねばならなかったから。


幼稚園時代から、家の庭の縁先で、
(その頃はグリーンカーテンなんて言葉はなかったけれど)
朝顔は当然当たり前の様に咲く夏の花。
ある時はおままごとの色水、又は壮大な化学実験、
空想の中の親指姫や花の妖精の衣装、
暇つぶしに数える今朝咲いたの花の数、
もしくは萎んだ蕾をむしって、花がらを開いて遊ぶ。
色違いに並べて比べっこする。


朝顔は鉢植えで買ってくる物ではなくて、種から育てるもの。
自分で蒔くもの、いつの間にか交配、色が混じり、
大きさが変わり、好みのいろとは違うものになり、
葉にも花にも斑や線が入って柄模様が変化し、
一期一会の自然の妙だったのだけれど、
それは馴染みの街角の垣根や庭の一部で、
一つだけ鉢植えに支えの棒を立てて眺めるような、
そんなものではなかった。


時々私がお邪魔するこのブログでも、
入谷の朝顔市の記事があった。
http://cafegent.exblog.jp/20704604/
そして、ぼんやり記事を眺めながらハタと思う。
みんなこの朝顔が大きくなって伸びたらどうするの?
どこに植えるの? どこで育てるの?


やけに小さい鉢に幾つもの朝顔
こんな小さな花の朝顔、変わり朝顔
自分の好みではないと思っていたが、
小さな朝顔で背丈が低くないと、鉢植えでないと、
花を育てられない場所、人の家があるということを、
とんと思い描いたことがなかった。


私にとって多くの植物は動かせるものではなく、
その場所に根付くものだったから、
移動可能な鉢植えは、それこそ観葉植物のイメージ、
「飾り付け」の一部。
花が移動可能な場合、切り花だけを想定していた。
だが、庭もベランダも思うに任せぬ場合、
鉢植えで花を楽しむのは当たり前のこと。


新しい品種や外来種で日長一日咲く朝顔に不快感を覚え、
暑さにうなだれあっという間に萎む花に愛しさを感じ、
庭土や塀、フェンスや日よけ代わりのよしずに絡みつく、
野生化してその辺の原っぱに縦に伸びずに横に広がっている、
昼顔や夕顔の仲間になり果てた様子の朝顔に、
あれまあと思いながら過ごした、
そんな日々は遠い。


朝顔市は朝顔を購う市。
されど、私の頭の中には、買っていかれた家々で
どんな風に朝顔たちが過ごしているのか、
植え替えられて広い大地を謳歌しているのか、
お姫様宜しく室内に鎮座ましましているのか、
今やはや、見当も付かないシロモノとなっていた。


朝顔はどこでどうしているのだろう。
ちなみに我が家では朝顔の日よけが無くなって久しい。
全てゴーヤカーテンになってしまった。

朝顔は闇の底に咲く (いまを生きることば)

朝顔は闇の底に咲く (いまを生きることば)

朝顔百科―アサガオの栽培・仕立てから園芸文化史まで

朝顔百科―アサガオの栽培・仕立てから園芸文化史まで