Festina Lente2

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ジブリ版「ゲド戦記」を観て

原作を読んでいないと理解するのが難しいと思われる、
アニメ版「ゲド戦記」。
昔、愛読した記憶を頼りに娘と一緒に観にいった。
水曜日のレディスデーと金土日の混雑を避けて、
前売り券で木曜日に観るという作戦。
お陰で13:30からの上映に、ぎりぎりにたどり着いてが、
結構いい席で観る事ができた。
しかし、「せいてはことを仕損じる」駐車場に車を止める時に、
鉄骨の柱に車をこすってしまい、
がっくりと落ち込んでの鑑賞となった。
ジブリ作品には色々思い入れがあるのだが、
その原点とも言える「太陽の王子ホルスの大冒険」を
思い出させるところが随所にあった。
特に、最近のジブリが得意とする、
細かく書き込まれた絵画的な背景をバックに
かなりそぎ落とされた単純な線で、
大胆に力強く描かれた人物像は、
映画用のアニメというよりは、
テレビアニメの人物像に近いものがあった。


・ゲドの声 菅原文太が存在感があり非常に良かった。
      (テナーの声は浮いていたなあ)
・テルー←サン(もののけ姫)←ヒルダ(太陽の王子)
     思いつめた表情のヒロイン。
     贄(にえ)にされた少女の系譜とでも言おうか。 
・アレン←アシタカ(もののけ姫)←ホルス(太陽の王子)
     剣を持つヒーロー。
     人と共にある存在から次第に悩み多く孤立する存在へ。
・クモ←カオナシ千と千尋)←悪魔グルンワルド(太陽の王子)
    欲望を煽る、もしくは欲望そのものの存在である悪役へ。 
このキャラクターの違いは、創られた時代性にも根ざしているのだろう。
高度成長期にあって、「人類の進歩と調和」をテーマにした
万博前の日本。
バブル崩壊後、自然と人間の共存を模索していた20世紀末。
世界中が確固たる価値観を失い、
生きる事に希望を見出すのが難しい現在。
印象的なメロディと歌声で予告編CMを支えていた
「テルーの唄」にもあったように
「心を何にたとえよう」が、まさに大きな課題である。
生きる事が死ぬことを受け入れる事だという事を、
意識することがどれほど難しい事か、
受け入れ難いことか、
仮想現実を手中に収める携帯電話・Ipod社会で
育った若い世代には、切実な問題だろう。
その魔法とも麻薬ともいえる魅力の虜(とりこ)になって、
自分の手足を使って体験する事、感じる事、
体験の真ん中から語る事ができなくなってきているのだから。


小学校1年生の娘も、CMでインプットされた主人公達の名前と
イメージをそれなりに膨らませて、わくわくしながら見ていたのだが
比較すると「ブレイブ・ストーリーの方が面白かった」というのが
娘の感想だった。まあ、それはそうだろう。
あれは、ある意味、ジェット・コースター・アニメで
ゲームの手法を取っているから、
子供を飽きさせないように場面展開している。
それが、作品の深みを失わせる結果となり、
リセット可能なゲーム感覚を
引きずるラストシーンとなってしまっているのだが。
それに比べてロングショットが多く、
「背景への視点」を重視し、
感じる時間、考える時間を意図的に多く設定した
画面構造を持つ「ゲド戦記」は
逡巡するアレンの不安と、
安定したゲドとテナーの成熟と、
虐待されてきたテルーの孤独と同調するように、場面展開する。
(竜と人間との関係性については、ここでは語るまい)


テルーが歌う場面を長い(だるい)と感じるか、
心の痛みを持って共感できるかどうか、
オリジナルのストーリーとの接点以前に、
二つの異なる創られ方をしているアニメを観る見方や姿勢に
つながってくるだろう。
根底では同じテーマを追い求めているのかもしれないが、
具体的な伝達手段が同じアニメ作品でも大きな差が出ているのは、
非常に興味深い点である。
(原作の格が違うと言われれば、それまでだが)
 

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