Festina Lente2

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もういくつ寝ると誕生日?

「7歳のおたんじょう日、おめでとう。
 そして、小学校入学おめでとう。
 学校は楽しいですか。どのかもくがすきですか。
 この1年も楽しくすごしてね。」


「ことしもMちゃんのお誕生日が近付きましたね。
 1年はあっという間ですね。
 ことしは偶然お会いできて、
Mちゃんの写真を見せてもらえたりして
うれしかったです。
お仕事忙しいと思いますが、無理せず
子育て満喫してくださいね。」

ドラえもんのバースデーカードが届いた。
実際には、娘の誕生日に3週間ほど早い。
娘を産んだ時、お世話になった助産師さん(の卵だった人)から
9月の声を聞くといつも届く、恒例のカードである。



7年前の夏、残暑が厳しい中、スイカのようなお腹を抱えていた。
(超)高齢出産!? の初産だった私。
幸い自宅から最も近い所に、母子医療保健センターがあった。
そこでは、大学病院と同じように
お医者さん、助産師さんの実習も行われていた。
入院を命じられて1週間、1日おきの誘発3度目だった出産日当日
まだ娘がお腹にいた時、彼女は実習中の学生さんだった。


「よほどお母さんのお腹の中が居心地良かったのねー」と
今でもよく言われる娘は、予定日より2週間遅れで、
やっとこさ、生まれて来た。(この時からのんびりやさん)
お陰で、お腹の中で十分でっかく育っていて、
生まれた後は、実際病気も少なく、育てるのは楽だった。
私はのんきに自然分娩を疑ってもいなかったけれど、
(微弱陣痛と産道が硬いのは、年齢上覚悟していたので)
主治医は陣痛が来なければ、帝王切開だと決めていたらしい。
(後から聞くところによると、である)ラッキーなことに安産だった。


幸い元気に産声を上げて、にっこりとウインクしながら
(片目しか開いてなかったので)生まれてきてくれた娘。
この時、主治医と共に娘を取り上げてくれた別の助産師さんは、
当時独身だったが、数年後、結婚・出産された時、
「初めて自分の赤ちゃんと対面」の感動を年賀状で伝えて下さった。


小児科の病棟から、娘の「異常なし」を伝えるために、
たった1度だけ、産科の病室に来られた先生。
退院前と1ヶ月検診の時に2度だけお会いした保健婦さん。
センターに紹介状を書いて下さった、近所の産婦人科の先生。
(妊娠初期にインフルエンザでお世話になりました)
初診以来、1ヶ月検診までお世話になった主治医のT先生。
夕方の出産後も、当直だからと夜中も診に来て下さった。
退院まで毎日病室に顔を見せて下さった。
(同室の主治医の違う、他のお母さん方に羨ましがられた)
たまたま私が眠っていた時は、起きている時に
わざわざ出直して来て下さった事を、忘れはしない。
今はもう、大学病院の方に戻られてしまったらしいけれど・・・。
真夜中の初授乳から、退院まで見守ってくださった看護師さん達。
乳腺炎になりかけて、おっぱいマッサージを兼ねて、
子育てのアドバイスをして下さったY看護師さん。
みんなみんな、懐かしい。

産み月の9月、いつもいつも心の中に浮かぶのは、
出産前後の甘く切なく、慌ただしく過ごした、不思議な時間。
ひたすら前向きで、家族の未来を夢想していた、
何も知らずに幸せで、(今よりも)若かった私、
「未来を信じて疑わなかった自分」を思い出す。
赴任地と病院を行ったり来たり、てんてこ舞いだった家人の
初々しいパパぶり。コットの中ですやすや眠る新生児の娘。
若葉マークのママは、自分よりも愛しい者を得て、幸せだった。
・・・追憶の中では、何もかもが、まだまだ鮮やかだ。


当時学生だった彼女とは、年賀状でお付き合いしてきたのだが、
6月偶然にも職場で出会い、彼女の方から声を掛けて頂いた。
まさかまさかである。最新の娘の写真もお見せすることもできた。
彼女は現場を経て子育て支援活動のみならず、大学やその他でも
思春期の青少年の教育・啓蒙・相談活動に力を入れている。


思えば娘を産んだことで、人様とのご縁・関わりが豊かになった。
育休が終わってからは、丸5年間、保育園でお世話になり、
多くの人に見守られたお陰で、こんなかーちゃんと共に
すくすくと育ってくれた娘は、なんと小学校1年生。(早いもんだ)
誕生日を指折り数えながら、6歳最後の日々を元気に過ごしている。
もう、いくつ寝ると、7歳かな?