Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

顔の見えないお付き合い

ブログを書き始めてから2ヶ月経つ。早いものだ。
我ながら、入院してまで書いている。なんて奴だ。
失われた○年ではないが、何も生産的なことを考えずに生きてきたので、
眼に見える文字の連続に、思わずはまってしまったのかもしれない。
本来、三日坊主の私が・・・柄にもないことをしている。
何でも、HP・ブログを持つ人の割合は爆発的に増えているそうだから
私は単純に流行(はやり)に乗っているだけ、かもしれない。
まあ、いい。有り難いことに言論の自由の世の中だ。
携帯電話かけ放題、しゃべり放題、思考の残骸垂れ流し放題、
いや、文字は残る。そう、実は人は、自分の痕跡を残したがる。
我々は、縄張り意識を根底に持つ、けもの、哺乳類だったのだ。


いやいや、もとい。ちょっと鬱になったのは、病気のせいではない。
自分が読んでいたブログが、最近、次々と閉鎖・休止されているからだ。
コメントを付けたことのある部屋も、全くROMだった部屋も、
むろん、ひよこブロガーに、忙しい中コメント下さった部屋も。
思えば、顔の見えないお付き合いだった。
それでも、自分の心には深く響く、知識と知恵と癒しと共感。
そういう電脳玉手箱に、いつしか、はまっていったのだ。


思えば、顔の見えないお付き合いだった。メル友などとは違う。
(携帯電話を使わない私は、メル友を持たない)
私は、どこにも行けない分、違う世界に憧れた。
知識や経験がない分、違う世界での現実、実情、曝露、裏話、
怒り、憤り、哀しみ、落ち込み、喜び、楽しみ、気付き、笑い
吐露される心情、さりげない気遣い、時には自らを追い込み
時には自らを笑いの対象とし、リアルタイムの悩みが打ち明けられる。
日常かと思うと、非日常的な世界。


こんな世界があることを、1年前まで知らずにいた私が、
今、その世界の中に関わっていることは、本当に不思議だ。
一部の創作HPで、「ドリーム」として語られる世界とは異なる、
日記と言う形式を借りて、展開している蜘蛛の巣に
私は見事に引っ掛かってしまった。


その糸の紡ぎ手が、ステージを下りて、どこへ行こうとしているのか、
私は知らない。私が関与することではないから。
でも、この寂しさ、哀しさ、切なさは、何だろう。
大好きだった連載が最終回を迎えるような、そんな気分?
前を限りなく走り続けていた人たちが、次はどこを目指しているのか、
私は知らない。私が詮索するのは、おこがましいことだから。
ただ、私は、今まで張り巡らされた網の目を伝い歩きしながら、
何と無数の励ましを、労わりを、優しさを頂いてきた事だろう。
何とたくさんの「きっかけ」や「気付き」を得て来た事だろう。


思えば、顔の見えないお付き合いだった。
しかし、「初めに言葉ありき」である。
言葉は人だった。
ここでは、言葉が人だった。
それを仮想現実だと、揶揄する人もいるかもしれない。
名著の読書が高尚で、今「ここ」にいる事が、卑小だと誰が言えよう。
ここでは文章が人、文体が、ブログ紙面の体裁が、
「かのひとびと」の表したかった、「ひととなり」の一部としてある。


「かのひとびと」の思いを踏みにじる事は出来ない。
しかし、何をどう受け取り、思いを馳せるかは、受け手の自由だ。
語り手の口から物語が滑り落ちるとき、聞き手の受け止める世界は
2次的に再構成される、聞き手の物語だから。
人は書きたいことを書き、聞きたい言葉を聞く。
自分が聞きたい言葉を書き、書きたい言葉を聞き取るのかもしれない。
物語はそんなふうに創られ、享受され、伝播し、再生産される。
私も彼らも「書く事で、語る事」で、創り創られる存在、
双方向に見えて、実は一方通行かもしれない。
けれども道は道。
人は人、言葉は言葉、思いは思い。


思えば、顔の見えないお付き合いだった。
筆を折ろうとする人がいる。まだ、書き続けている人がいる。
これから書こうとする人もいるだろう。
そして、その字面から私が受け取るものは大きい。
書き手である人々から、私が受け取りたいものは、大きい。
今までも、これからも、それだけは変わらないだろう。


だから、今まで書いてきた方に、今も書き続けている方に、
これから出会うであろう未来の書き手、未知の書き手にも
感謝の言葉を送ろう。
ありがとう。本当にありがとう。
言葉をありがとう。世界をありがとう。