Festina Lente2

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雨の丸一日研修日

男性上司が女性の部下の心理を図りかねているらしい。
つまり、家庭内でも同様の事が起こっているという事だ。
あれほど世間では男女の心理の違いを話題にして本が出ているのに、
読もうとしないのだろうか? 
そんなもの読む暇無いよというのが男性側の心理かな?
ま、それはともかくとして、
企業内研修も結局は家庭内コミュニケーションに
収束される部分が思いのほか大きい、という事だろう。


さて、午前中の話題で気になったもの。
失敗をトラウマにするか、モチベーションにするか。
なかなか難しい問題だ。個人的に言えば、どんな些細なことでも
トラウマにもなり得るし、モチベーションにもなり得る。
どちらの割合が多いかというのは、個人差だ。
一概に言い切れるものではない。
というか、その時の問題の取り扱い方・取り扱われ方に拠る。
             
          
その結果、仮にトラウマが7、やる気3で、
しんどいことはしんどいが、前には進める。(全く進めないことはない)
進もうとしても進めない時に、トラウマとして露呈する。
進めていれば、モチベーションとしての側面を見ることも可能。
その間に自他双方からのケアも可能だし、トラウマが癒える場合もある。


一概にトラウマが絶対的に永続的なものだ、とは限らない。
ある意味、その執拗にも思われる永続性が、
モチベーションを支える「逆の顔」の場合も、ある。
(私の場合は・・・そうだな。その感が無きにしも非ず)
必要は発明の母、いやいや、路線が違う。


いずれにせよ、トラウマという言葉が独り歩きして、
必要以上の影響力を持って、個人を(もしくは分析者をも)
縛る事が恐ろしい。言葉は言霊なので、
「それがトラウマなのですね」などと軽々に人に言うのも、
言われてもならないものではないか・・・と感じでいる。
(ここで、色々書いたり愚痴ったりしているのは、脇に置いて読んで欲しい)

心理学化する社会―なぜ、トラウマと癒しが求められるのか

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心を商品化する社会―「心のケア」の危うさを問う (新書y)

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本日、私にとってのキーワードは「波に乗ろう!」だ。
波の底にいると見えないものでも、波に乗れば景色も違う。
今まで見えなかったものが、見えてくる。
(怖がらずに波に乗れるかどうかが、問題なのだが)
流されていると、卑屈にならずに波に乗れるかどうかはともかく、
時代の波、仕事の波、そういうものに乗れるというのも一つの才能だし、
タイミング、運、出逢いだと思う。
そういう意味では、私はある意味、「波」に乗っている。
(全面的に乗り切れている、とは言い切れないが)

次のキーワードは「壁に当たったらスタンダードに戻る」だ。
要は基礎基本が大切(中教審か?)な訳だが、これは意外と忘れる。
いや、現場では不思議なくらい忘れられる事柄だと思う。
自分が「できる」「知っている」と錯覚しがちだから、
思い込みの中でシミュレーションして、堂々巡りになる事がある。
ケースを取り扱う場合、その独自性一つ一つを尊重する余り、
「手続き」を怠ってしまう場合もあるし、
機械的に「枠」に放り込むこともある。
それは、ある意味スタンダードな流れに沿っているようで、
上辺だけだから、危ういことだ。
壁に当たらなくても、スタンダードを忘れるな」である。


トラウマとして扱うか以前に、トラウマとならないようにケア。
なってしまえばアフターケア。
モチベーションとして方向付けが出来て、すぐにサポートできれば、
もっとよろしい。なるほどなるほど。
言葉では簡単だけれど、難しい。でも、ここでめげてはならない。
「なるほど」と思って、その分岐点を見つけるタイミングさえ
狂わなければ、確実に次の波には乗れるのだ。
クライアントと一緒に。
          

ただ、その前に自分が波に乗ることを知っていなければならない。
色んな波があるしね。
ひょっこりひょうたん島の歌だな・・・。
でもって波に乗りながら、波を乗り越えながら、
「だけど僕らはくじけない、泣くのは嫌だ、笑っちゃお」
これが前半戦だな。

自己コントロールの檻 (講談社選書メチエ)

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