Festina Lente2

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立場を変えて

終業後参加のため最初から聴講できず。この医学講座に参加したのは初めて。
サラリーマンが参加できる時間帯じゃない。高齢者が異常なほど多かった。
まるで病院の待合室みたい。
カルチャーセンターというのはこういうものだろうか。


ただし、内容が内容だから興味があって来ているのだろうが、
(惰性で聞くには、かなり高度な内容を短時間に詰め込んでいたので、
専門的に勉強している人間でないと、解説付きでなければわからない)
専門用語が多かった。それなのに、レジメは単純に用語解説のみ。
親切なようで不親切な感じ。通常は資料があるのだという。
せめて、聴講者がわかりやすいように、
後から内容を思い出せるようにというのならば、
パワーポイントの画像(文書)を、資料として貼付しておくのが
親切というか必要ではなかったか。
何しろ、読む間もない速さで切り替えていくのだから、
聞きながら画面を見ていても、画面が読み取れないくらい。
インターネット配信で後から見られると言ってもこれでは・・・。
もう少しペースダウンしてくれても。


開始時間が早すぎる。18:10から20:00までというのは、
大学側としても、聴講者の大部分が60台以上の高齢者ということから考えても
仕方の無いことかもしれないが、働き盛りのサラリーマンは
最初から聴講することを考慮されていない。
ビデオかインターネットで見ればいいわけだが、それにしてもね。
内容としては、欲張りで盛り沢山な内容。


熱意は伝わってきたし、普段、教壇に立っているんだろうなあという
雰囲気はありあり。いかんせん、専門家の良さ、哀しさ、ない交ぜ。
難しい事柄を易しい例で言おうとして、逆に難しく言っている場面も。
まあ、自分が同じことを説明しろと言われてもできないけれど、
カウンセラー養成講座で丸1日分必要な内容を、
コンパクトに1時間半にまとめましたという感じ。
お年寄りの知っていそうな、眠り狂四郎や森田健作
自分と奥さんとの会話などを入れて自己開示を含めながら、
笑いを取って小難しい所をすっ飛ばして走るように話していったのは
年の功だと思ったけれど。(若い人には通じないよねー)


解釈モデル。すり合わせ。それが難しいんだろうな。
医学で留学する人の推薦状には「共感的だ」と書くのが一番の賛辞という
そんな雑談が印象に残った。「思慮深い」「学究的な」よりも
「共感的」であることが必要とされるらしい。


しかし、ムンテラ以降(ショックで)正常に思考回路が働くなった人間が
フツウの感情や感覚を取り戻すまで、待ってもらえる時間は無いから
実際、解釈モデルのすり合わせは、困難を極めるという印象を持った・・・な。
みんながみんな、私みたいに「超落ち込み」にはならないのだろうけれど。
現実を把握するまでに、現実を受け止めるまでに時間がかかる場合、
「物語」は、錯綜する。家族の物語は患者の物語とは違う。
患者になるか、家族になるかで、物語は変化してしまう。


ナラティブで意識を変えるには、時間がかかる。
グリーフワークにしろ何にしろ、時間がかかる。
その時間を許してもらえないのが、現代社会。
喪の期間が1年とか3年とか、あれは必要なことだった
昔々の習慣は、経験上の先見の明があったんだとつくづく思う。

とりあえず、単発テーマで聞く医学講座だから、こういうものなのだろう。
教師が生徒に教えるようにできるだけ頭に留めて置けるように工夫したというよりも、
話さなければならない内容を、短時間内にどれだけ詰め込めるか、
ある意味、このテーマに沿って(講師が)話したいことをどれだけ話せるか
どれだけ必要事項を盛り込み披露するかというような印象が強かった。
聴講者のレベルに合わせて、理解を促すことを前提とした組立てでではなく
講座の一定のレベルを維持するための水準を、遵守した体裁が感じられた。
(他の講座の内容は知らないけれど)


でも、まあ、こういうカウンセリング的な解釈に基づくフォローアップ、
医師患者関係の構築に関する授業は医学部では行う事ができていない、
という発言を現場の医学者から聞けただけでも、収穫か?
やっぱりそうなんだろうな、とは思っていたけれど。
でも、どんな職場でも「心のこもった話し方や聞き方」ができる人と、
どうやったらこういう態度が取れるのだろう、話し方になるのだろうと
いう人もいる。理想は追い求めるもの。今現在目の前にあるものではない。
こういう講義が医学>部では出来なくて残念という事は、
できればしたいという事だ。それを評価して受けとめておこう。
現場で学ぶ人は学ぶだろうし、体得していくのだろうし、
磨きをかけるのだろうから。
どんな職場でもそう。専門性+αは、自分次第。