Festina Lente2

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言葉尻

最近の話題。
そう、「言葉尻」に、苛立ちを覚える。
感情論で片付ける前に、
どうしてそう感じるのか考えなくてはいけない。
産む機械」発言、然り。
「二人の子供を持つのが健全な家庭」発言、然り。
きっと男性にはわからない、この感情、この感覚。
予め「産む性」であるという認識のもとに存在する女性。
女性としての、私。
産む性としての、私。


社会的な性ではなくて、
生物学的な性を自分で選択することはできない。
自分自身を受け入れるのが難しい年代も、
産む産まないを自由に選択できた時代も、
産みたくても産めないとわかった時も、
「女性である」という生物学的な事実は、変えようが無い。


「言葉尻」を捉えて、予算の審議が進まないことを憂える人もいる。
一国の大臣の認識・能力・隠れた言語カリキュラム、
ボキャブラリーの貧しさを分析して語る人もいる。
こんな国のこんな大臣の名前の付いた国家資格の証書を
手にするのは嫌だ、と感じている人もいる。
「言い訳をすればするほどぼろを出す人」を年齢から鑑みて、
退職して後輩に道を譲るべしと言う人もいる。


「組織」として問題なのか。「一個人の在り方」として問題なのか。
「役割」を担う機能の面から問題なのか。
「代表」としての顔となり得ないことが問題なのか。
「選挙の足手まとい」となってしまっていることが問題なのか、
「世の男性像」の許し難い象徴として問題なのか、
時代に乗り遅れた人間に権力を持たせている政権そのものが問題なのか。
何が問題なのか。


何が問題かって? それは人それぞれ。受け止め方が違う。
何を解決したいのか、何を求めているのか、人それぞれ違うから。

子どもという価値―少子化時代の女性の心理 (中公新書)

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子育て支援でシャカイが変わる

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確かなのは、見知らぬ老人が一定の権力を握っていて、
自分の普段からの意見を当たり前のように述べて、
多くの人間を傷つけて、平然と「国語力の問題」と片付けて、
権力の座に居座っていること。
そして、そのことを、相変わらず現政権が認めていて、
その政権は、福祉や教育医療の問題を、自分に関係ない世界の
「数字上統計上で意のままに操ることのできるパーツ」として
もの扱いしていること。
これだけは確かなこと、だと感じている。私は。


人間は一旦感情を逆撫でされてしまうと、過敏に反応するものだ。
薬剤の副作用のように。アレルギー反応のように。PTSDのように。
個人が持つトラウマをいとも簡単に揺り動かし、掘り起こす。
そういう意味で許されない、今回の発言内容。
そういう人間に、政策など語る資格を与えたくないのだ。
そういう人間が、自分の属する社会に何をしてくれるのだ?
そういう人間の後ろ盾が、力任せに何をしようというのだ?
そういう不信感しか、沸いてこないのだ・・・。


精神的に損害を負った場合、正当な理由が認められれば
損害請求が可能だ。普通は金銭で解決・和解・妥協を図る。
今回の場合は、仮に換算すれば、いかほどに?
その「言葉尻」に傷ついた人間の数を、
怒っている人が多くて・・・(困るなあ)で済ませられる?
問題だとしか捉えられないから、こういうことが起きるのだろう。
その程度のこと、としか捉えられないのだろうから。


子育てに、育児に参加しない人間。
いいとこ取りだけして、躾や育児方針について語ろうとしない人間。
毎朝毎晩保育園に送り迎えし、食事の世話・身の回り・衣服の管理・
歯磨き・トイレ・読み聞かせ・宿題の点検・連絡帳の記入・懇談会・
授業参観・習い事の送迎・買い物・掃除・洗濯・日常の雑事を、
殆ど人任せにして、生活の土台を人任せにして
目に見えない煩雑な生活の「責任」を負うこともなく
「そんなに外で働きたいのか」と発言した人間、
「子供を置いてまで働きたいのか」と発言した人間を
私が、許すことは決して無いだろう。


日々の営みを「機械」の出来不出来で決まるような
人と人との繋がりを「機械」の設置状態でみるような
授かりものの命を「機械」の生産機能で図るような
子供を必要としない人間の生き方も認めず、
子供が欲しくても得ることの叶わない苦悩を無視して、
「機械」呼ばわりされた屈辱を、忘れることは無いだろう。


特定の人物を指し言った訳ではないとしても
それを「言葉尻」、と捉えて受け流せるほど「人格者」でもなく、
「恵まれた生活」をしているわけでもないから。
「非難するほどの資格」があるならば、石を持てというなら、
全ての女性は、石を持ってもいいと思う。
石を投げていいと思う。
そう感じるくらい、不快な「言葉尻」を
毎日のようにメディアでも見なくてはならない、日々。
セカンドレイプのような気分。


迷走する家族―戦後家族モデルの形成と解体

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少子高齢社会のみえない格差―ジェンダー・世代・階層のゆくえ

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冷静に割り切ることも知っている。
問題解決とは何か、自分を制御するとは何か、
客観的に俯瞰するとは何か、理屈の上で頭の上では知っている。
ただ、感情を切り離して考えるのは難しい。
自分が貶められたという感覚を、持ち直すことが出来ない限りは。


だから、「なんてしつこいんだろう」と呆れる人は、
そういう人間もいるのだと思ってください。
そう感じる人間もいるのだと。
必要以上に傷ついてはならないと思っていても、
傷ついてしまって自分ではどうしようもない、
そういう感覚にとらわれて、過ごしている人間がいるということを。


いろんな人がいるのです。
いろんな人がいる社会なのです。
いろんな人が発言し、いろんな人がものを言う。
いろんな感じ方があり、いろんな傷つき方がある。
問題解決を図る、それ以前に、傷ついているということを
本当に認めてもらっている実感が得られない限り、
傷つき続けるのだということを、わかって欲しいのです。

女性のデータブック―性・からだから政治参加まで

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