Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

1日目(入院)

・・・大学医学部附属病院 病院長殿
貴院に入院を希望致しますので申し込みます。
患者氏名、生年月日、現住所、連絡先、世帯主、患者との続柄、
連帯保証人、氏名、住所、勤務先及び連絡先、患者との続柄、


上記患者について入院治療をお願いします。
患者入院の上は入院治療費に係る一切の責任は
私達が引き受けさせて頂きます。
尚、患者には諸規則・指示に従わせ
万一予測できない問題がおきましても
いささかも異議を申しません。

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「万一予測できない問題がおきましても
 いささかも異議を申しません。」って
凄いと思わない? 絶対無理だと思うけれど。


その他の書類と共に、やや慌しく入院。
前もってわかっていたことなのに、
じたばたしたのは、用意しておいたはずの
様々な物が無いということがあるから。
それもそのはず、検査を受けて入院が決まっていた
母本人が、自分が何の病気で入院するか、
しょっちゅう忘れてしまうからである。
・・・記憶が跳んでしまう年齢なのだ。


子供にとって親は鬱陶しい存在であり、
ありがたい存在でもあるので、心理的には感謝をすれど
敬して遠ざけておきたいものではある。
何しろ、いい年の大人を捕まえて頭ごなしに
一番物を言うのは、自分の親だろうから。


その親が、何を聞いても「わからない」を繰り返し、
どうして自分がここに居るのか、
いつ来たのか、何のために居るのか、
見当識が曖昧になってしまっているのを
目の当たりにすると、知識としてわかっていても、
切ない。やりきれない哀しさで一杯になる。




母はいわゆる「緑の指」の人だ。
野菜、花、木の剪定、何でもござれだ。
長く教育職にあったが、人を育てるよりも
植物を育てる方がいいと、しょっちゅうこぼしていた。
「植物は世話をすれば世話をしただけ、
    手間をかければ手間をかけただけ伸びるが、
 人間はそういうものではない」と嘆いていた。


すまんね、その最も育て損なった人間が、私だ。
教育、陶冶(とうや)、育成、支援、援助、
そういうものから「必ずはみ出す者」が居る、
例外の無い規則は無い人間の世界の無情を、
子育てしながら噛み締めたであろう、母。
うん、ごめんよ、思い通りにはならないんだよ。
だから、私も娘を見る度、自分を振り返る。


借りてきた猫のように振舞う母を見て、
人間としての当たり前の擬態に驚きもし、舌を巻き、
唖然とし、愕然とする。
看護師の入院時の聞き取りに対し、
「今年は風邪を引いたことも無く・・・」と答えている。


3ヶ月以上咳は続いている、夜は不眠が続いている。
何度もお手洗いに行って、眠りは浅く苛々している。
薬は飲み忘れる。使っては駄目というものを使う。
水分はきちんと取らず、最小限。食欲も無い。
なのに・・・、大嘘つきの返答。母よ・・・。


無論、後から別室で私が聞き取りに応じたが。
というか、この大学病院には面接室ができたわけだ。
1年と3ヶ月前には各階の病棟には無かったはずだが。
家人が入院時、お世話になった婦長さんに
挨拶がてら尋ねて見た所、ムンテラを行う部屋の
必要性が大きくなってきたので、病室を一つ潰し、
新しく面談室を設けたのだという。いいことだ。
ここは窓がある、自然光が入る。


私が精神的に追い詰められていったのは、
あの暗い狭い犯人取調室じゃあるまいしの、小部屋。
閉所恐怖症になりそうな、息の詰まりそうな、
何をどう考えていいのかわからない、部屋。
光も何も入らない、一畳だけの空間。
まるで二人用ロッカー室だった。


助教授(指導医)同席の主治医・看護師同伴の時は
空いている個室の応接セットでムンテラだったけれど、
その後は、どの部も空いていない、
(空いていても、感染症対策のため臨時一時使用は
 許されない・・・だった。じゃ、使った時は何?)
いつも、窓の無い暗い部屋ばかり。


再びその繰り返しかと覚悟していただけに、嬉しい。
きれいな部屋で、看護師と向かい合って
今の母の状態をきちんと伝えられるという事は。
誰に聞かれているかわからない、
廊下の立ち話ではなく。


明日の術前の主治医からの説明は、診察室横の処置室で。
両親のため、専門用語を全く用いない、丁寧な説明。
初めてお会いする先生は、お若い。
先ほど部屋まで来られた執刀医は、私と同世代か。
・・・明日手術で、病理検査と症例検討会を経て
主治医出張の1週間を飛び越えて、検査結果が
伝えてもらえるのは29日の予定とのこと。


両親が席を外した後、主治医にも母の状態を説明。
神経内科への紹介状をお願いする。
転倒防止の柵を付け、夜間はベッドには離床センサーを。
部屋に入るたびに、しゃきっと見当識があったり、
無かったり、差があることを申し送りに入れて頂く。
実の娘だって戸惑っているのだから。
むろん、高齢者は入院初日が一番混乱すると
言われているし、実際そうだが・・・。


手術は朝、9時から。手術当日は8時から8時まで
面会が許される。予定は2時間。
母のきれいな顔を見る事ができるのは、
今日が最期。
お母さん、明日また来るからね。