Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

スパイダーマン3

本日は良く働いた。何しろ実家でネズミ駆除。
横倒しの花瓶の中に、新聞紙を敷き詰めたお城ならぬ、
ネズミの巣を発見し、驚愕。何匹住んでいるんだ?
わたしゃ、水攻めにした花瓶を凝視しつつ、絶句。
いや、現状修復は1日では済まないだろうけれど、
とりあえず、気を取り直して、・・・
自分の体のメンテナンスに鍼灸整骨院
Regareでのランチも忘れずに・・・、
それから学童にお迎え・・・と。


「父の日」週末を家人と過ごそうと思っていたが、
家人は家人で実家の父親にパソコンを教えると
出かけてしまったので、双方親孝行に励む?
「父の日」週末となってしまった。
家族3人で過ごすよりも、実家で過ごす方が疲れるのは
どこの家でもそうなのだろうか?
気分転換に、家人がもう見てしまったと言っていた
スパイダーマン3」を観に、シネコンへ。
車で10分、田舎の利点。真夜中、ほぼ貸切状態。


しかし、主人公は本当にスパイダーマンか?
いや、多分そうなのだろう、判っているけれど。
恋愛、誤解、すれ違い、親友、誤解、すれ違い、
プロポーズ、失敗、すれ違い、
宇宙からの寄生体、敵役のサンドマン、ヴェノム、
さらわれたヒロイン、大激戦、親友の死、恋人との仲直り
アクションといい、要素といい、一杯詰まっていることは、
詰まっているんだけれどね・・・。
子供(お子様)向けの映画じゃないと思った・・・。


すれ違いと誤解の構図は、スパイダーマン1からずっとあった。
思春期の青年の、ささやかな自己主張や傲慢、虚栄が
結果的には一連の問題と悲劇をもたらし、
それが伏線となって、物語を引っ張っている。
1・2よりも、3になって、これはやはりお子様映画ではなく、
青少年向け啓蒙映画なのかなって、思えるようになってきた。


ヒーローの仮面が前作ではがされた時も、
「まだ子供だ」という乗客たちと同様の感慨と驚愕を抱いた。
ヒーローはヒーローとしての、内面形成ができていない。
持てる力の使い方を自覚できていない子供、
自己抑制や、自己批判が難しい子供、
ま、とにかく自覚が足りないよりも、
自覚が育っていない主人公。


自己主張の下手な内気な主人公が、行幸か不幸か、
降って湧いたような超人的なパワーを、
どのように使わなくてはならないか、
その為にはどれだけ多くの犠牲が必要だったか、
犠牲の上にしか、ヒーローの成長はありえないのか・・・。


ヒーローの精神的な成長とは何かといういうことを
この映画を見る青少年に、「道徳的見地」から、
解釈して欲しかったのかと思えるほどのストーリー構成。
ま、道徳的と言うべきか、宗教的と言うべきか、
キリスト教的な精神が、加味されていたことは否めない。


どちらにしろ、スパイダーマンには両親がいない。
主人公の精神的な成長は、伯父伯母も含め、親友の父親や
偉大な研究をしながら、モンスターと化した教授などに、
影響されている。主人公が投影する、しないに関わらず
ジキルとハイドめいた、というかまがいの、
善と悪の単純明快な対立構造設定が、やや笑える。


青年期に限らず、人生にはそのステージにおいて
乗り越えなければならない壁があるから、
観客にわかりやすく訴えるには、倒さなければならない
「敵」を必然的な存在として、毎回登場させているわけだ。


子供が親を乗り越えるように、(時には乗り越えられない場合も)
常に壁は意識されなければならない。
しかし、成長の最も大きな課題は「自己制御」にある。
自分の能力を把握し、自己抑制が効くこと。
自己表現と共に他者理解ができること。
これは難しい。
過分な特殊能力ゆえにヒーローとなった主人公は、
恋人の成長を見守る事さえできず、自己中心的になって、
結局、誤解・すれ違いを生み出していく。


職場での競争、いじめ、嫌がらせ、良くあること。
相手を叩きのめしたくなる苛立ち、恨み、傷つけあい。
自己の正当性を証明するためには、他者は常に悪。
自分に害を為すものには、仕返し、復讐を。
世間にはよくあることとして、
当たり前といえば当たり前なんだけれど、
人間の哀しさ、醜さ、弱さ、身勝手さ、どうしようもない部分、
こればっかりでは、なあ・・・。


ということで、ここぞというところで出てくるのは、
精神的な支え、導き役となる主人公の伯父、叔母夫妻。
まあ、伯父の死を引きずっている主人公としては、
その罪悪感をどこで解消するか、乗り越えるかというのが
一つの課題になっていた。前作での叔母への告白も然り、
今回の復讐に関する場面でも然り。


要は、キリスト教を背景に持っている西洋映画。
何故ならば、主要場面では至る所に、
「告白」「犠牲」「許し」が、満ち満ちている。 
お互いがお互いに、そのような関係であることが
必要だという主張に満ち満ちている。
主人公を取り巻く人間関係、全てにおいて。


もしくは、老賢者の知恵に導かれていく若者の、
シュトゥルム ウント ドランク。
青春時代には犠牲が付き物。若い時の失敗や負債を
どのように取り返していくかが、その後の人生の課題。
ヒーローでさえも、それが必要ならば凡庸な我々は、
もっと精神修養が必要な訳で・・・。


だから、スパイダーマンの陰の主役は
伯父・叔母夫妻ではないかと思っている私。
いや、今夜の映画のおばさんの言葉は胸にこたえた。
落ち込んでいる主人公に掛ける言葉。
「彼(伯父)は、私達が復讐心を持つことを望んではいない。
 復讐心は人間を滅ぼしてしまうから」


「最も難しいことから始めるのよ。自分自身を許すことから。」


いや、もう泣けてしまいます。
これができれば、人間勝ったも同然ですが、
自分が許せないから他人も許せないわけで。
なので、この映画は悔い改めの鐘に守られて
自己を取り戻す主人公と、それができずに劫火に焼かれる敵役。
敵を許すことができた主人公と、許されて砂と散る敵役。
自分の代わりに死んで行った伯父と親友は、キリストを反映し、
親友を抱くMJはピエタさながら。


もちろん、主人公が敵を許せるのは、
自分自身の行為を告解し、叔母に許された背景が
あったからこそ。それが無ければ、成立しない世界。
しかし、自分自身に起こった出来事を受け入れ、
受け止め、許すことができる人間はそうそういない。
いやしない。
・・・だから、この映画のテーマは私には、重い。

スパイダーマン2

スパイダーマン2