Festina Lente2

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物語への入り口

今宵、十三夜の月。皆様いかがお過ごしでしょう。
灯火親しむ頃、お気に入りの本を片手に、なんてことができない毎日。


眠る前に本を読んであげる習慣が無くなってから随分たつ。
小学校1年はまだ読んであげたのに。
どんどん字が読めるようになって、どんどん本を読むようになった。
ある意味自分の子供時代を思い出し嬉しい。ある意味心配。
現実の友達づきあいよりも、本の世界の方が楽しくなってしまうからだ。
それはこの位からだったと記憶している。


娘の「あのね帳」を読むと、1年から既に図書室の常連。
さもありなん、物心ついた時から母親と一緒に図書館通い。
ビデオ鑑賞ブースで「魔法使いサリーちゃん」を見、
忍たま乱太郎」「怪傑ゾロリ」は、保育園年中さんで読破。
休みの日は、図書館に行くものだと思って育った子だから、
学校の図書室なんぞ、どうってことないのだろう。


小学校時代、図書館は図書の時間にしか行けない特別な場所だった。
本の貸し出しも、4年生以上で低学年は許されてはいなかった。
娘は毎週学校から2冊ずつ本を借り、その日のうちに読んでしまい、
物足りなさそうにしている。ある意味、贅沢だ。
私は繰り返し、それこそ擦り切れるまで同じ本を読んだが、
娘にとっては、こういう形の読書は殆ど為されていない。
もっとも、もう少し年齢が行けば、ただの濫読から精読になるのだろう。
焦らなくても、まだ小学校2年生だ。


先日、日曜の夜、ラジオから朗読が聞こえてきた。
森鴎外最後の一句」だ。

最後の一句・山椒大夫ほか (読んでおきたい日本の名作)

最後の一句・山椒大夫ほか (読んでおきたい日本の名作)

山椒大夫・高瀬舟 他四編 (岩波文庫 緑 5-7)

山椒大夫・高瀬舟 他四編 (岩波文庫 緑 5-7)


日曜の夜、週末の家人宅から平日の家へ戻る途中、
カーラジオで朗読を聴くのは、我が家の楽しみ。
離れ離れで暮らす日々の、小さな夜の儀式。
夜のドライブは娘の睡眠時間の確保、静かに別れを味わう時間。
たまたま一昨日の朗読は「最後の一句」だった。
中学校で後半を抜粋して習った記憶がある。
森鴎外の文章にしては易しめなので、教科書に採択されていたのだろう。
しかし、教師として教えるならば、色々と突っ込み所のある作品で、
教材研究を真剣にするならば、なかなか手ごわい作品でもある。


しかし、耳から聞く文学作品というものは、字面を追うのとは異なり、
何と新鮮に想像力を掻き立ててくれるものなのだろう。
ラジオ文芸館だから、演出上音楽や擬音語擬態語も入る。
そして、熟練者の朗読は、やはり職人芸。
この日は伊藤文樹アナウンサー 。


いつもなら途中で寝込んでしまうはずの娘が、その日は寝なかった。
22:30 話は佳境に入ってくる。主人公いちが父親の命乞い。
自らを含め子供全員の命と引き換えにと、直訴嘆願の場面。
娘は、「どうなるの? お父さんに会えないで死んじゃうの?」と
小声で訊いてくる。・・・、話の粗筋はしっかり聞き取れているのだ。
「最後はどうなるの?」「しーっ、黙って聞いていて」


中学校時代、いちの人物像にはやはり考えさせられるものがあった。
「献身」という言葉を全身全霊で理解するには、未熟ではあったが、
「献身の中に潜む反抗の鉾(ほこさき)」という言葉は、
現在に至るまで胸に残っている。
「マルチリウム」という言葉よりも、強烈に残るフレーズだった。


むろん、娘はそんな詳細な部分にこだわって聞いていたわけではない。
おそらく、誰かの命を救うために、犠牲・身代わりを申し出て
必死で救おうとしているという状況が、理解できていたのだろう。
父のために娘が・・・、子供たちが。
仮に父親が助かっても、生きて会えないと言われている、
そのお白州での取調べのシーンを、ドキドキしながら聞いていたようだ。
からしか入ってこない、物語のドラマ的な場面、
時代的な設定・リアルに想像は大人ほどできなくても、
本人なり子供なりに、緊迫感・臨場感を持って聞いていたに違いない。


最後に、結果的に助かったことを知って安堵していた娘は、
小学校2年生とは思われぬほど、大人びて見えた。
安心して満足している様子は子供でも、
心の動きは単純な心の動き、反応ではないと感じた。
娘は、「人の死」に対して敏感に反応している。


連日報道される加古川で起こった事件、間接的に心理的な圧迫を受ける。
2年前我が家を襲った出来事。離れて暮らす父親は、
いつか自分から遠くに行ってしまうのではないか、
そんな思いが常に心の中にあるのだろうか。
入退院を繰り返し、服薬管理。あっという間に老け込んだ父親を、
気遣いながらも、「死」を意識せざるをえない年頃。


だから昨夜の「僕の彼女を紹介します」で劇泣き、大泣きしたのでは。
メディア、ニュースに晒される目と耳、従来よりも刺激を受ける環境、
目からも耳からも、物語は押し寄せてくる。
何かにのんびりと守られて穏やかな時間が過ぎていくような、
そんな幼少期ではなく、物心ついた頃から家庭内や世間でのざわめきが、
娘の心を敏感にさせているとするならば、
親はそれをどう受け止めれやればいいのか。

元型と象徴の事典

元型と象徴の事典

物語の入り口は、もっと穏やかなものであって欲しいというのは、
親の贅沢な望みなのだろう。物語、個人の物語、自分自身の舞台というのは、
気付いた時には決して降りられない舞台の真ん中だ。
袖に引っ込むことはできない。
生まれ出でたその時は、意識に上らぬままの登場であり、
舞台を降りるその時は、意識するもしないも意のままになるかどうか。
メメント・モリ」は知らなくても、現実はそうだ。

いま、なぜユングか―「元型」論と現代

いま、なぜユングか―「元型」論と現代

物語の入り口は、異世界に遊ぶことばかりではない。
パラレルな物語世界を朗読で、映画で、読書を通して掴んだとしも、
いっときの感動は長くは続かない。
小さな棘、予想より重い碇になって心に残るとしても、
常に自分の中に還元されていくもの、現実の自分の物語に
引き寄せられていく一過程でしかないのだから。


物語の入り口は一つではない。日常生活の至る所に存在する。
おそらく、ユングの述べる「元型」に相当するものは、
その入り口の別の側面、見る人が望む側面であったり、
見たくない側面であったりするに違いない。
また、人間の成長過程で避けられない場面であるに違いない。


無数の入り口、無数の出口。心の回路を組み立てていく中で、
「生と死」は、幼い心に強い影響を残す存在だ。
面と向かってではなくても、周囲から押し寄せてくるその壁を
眺めるか、登るか、築き上げるかは、個人の物語による。
ただ、私は娘が物語の入り口にしっかり立っているのを、
何かを受け止めているのだということを、感じている。

努力論 (岩波文庫)

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スマイルズの世界的名著 自助論 知的生きかた文庫

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