Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

君と共に

ほぼ睡眠時間3,4時間あるか無いかの状態が続く。
連続して目の下に「くま」ができるとさすがに落ち込む。
それでも今日さえ乗り切れば・・・、
いや、これが前哨戦でしかないのが哀しい。
予定は進む。

2:30 起床 17:30 入浴 18:30 朝食 19:40 出勤
8:25 始業 9:40 会議 打ち合わせ 事情聴取
午後から同僚と室長が風邪でダウンして半休を取る。
絶対私にも、うつってるだろうなあ。でも、帰れない。
午後からは外だ。15時まで。体力と神経がボロボロ。
その企画に対する同僚の熱意には頭が下がるが、
周囲の協力体制には悲惨なものがある。


15時半、担当企画研修に入る。講師との打ち合わせ。
17時過ぎ、ワークショップを閉じて後片付け。
17時半、休憩。18時から19時まで残業。
19:30 娘は2日後の音楽会に向けて、お友達と教室レンタル。
21時までエレクトーンに向かう。21:30 マックで休憩。
22:00 帰宅 22:30 入浴 23時過ぎ、娘就寝。


小学生がこんなに遅く寝ちゃいけないと思うけれど・・・。
大体、発表会なんて経験していない私、
ここまで練習しなくちゃいけないのかな、グループレッスン。
仕事も家もぎっしりで、何だかもう。
娘と共に、ユニットのお友達と共に。
仕事が辛かった今週は、特に堪えるこの夜の練習。

「楽勉力」で子どもは活きる!

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自分を変える気づきの瞑想法―やさしい!楽しい!今すぐできる!図解実践ヴィパッサナー瞑想法

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穏やかな口調で会議を開きながらも、詰める所は詰めねばならぬ。
時間を見ながら仕切らねばならぬ。漫然と座っていられない。
隙間時間を何とか見つける。
不思議なことに予定が押している時に限って、
滅多に弱音を吐かぬ皮肉屋の同僚の愚痴を聴く時間となる。


午後。何かをしようと動く人と、させられていると動かない人、
何かをする限りはできる範囲で動こうとする人の中に、
派遣される担当部外者としては、暗澹たる思い。
野放図に展開される時間潰しの檻の中に、どう関わればいいのか。
こうまで見事に仕事に冷たくなれるというか、
いい加減になれるというか、見事だ。
こうやって自分で自分の首を絞めていくんだろうな・・・。


大勢の人間が集まって何かを一つするとなると、
意見の食い違いは在れど、協力体制がないとできない。
専門外の仕事ではなく、ルーティンワーク内でも
少しでも負担を感じることはしない集団は、
全員が少しずつ手を引くことで、
結局集団そのものを自滅させている。


ルールを作ることも守ることもしない。
駄目なことは駄目だと伝える労力から逃げる。
言っても無駄だと、最初から言わない。
こうして、何もかもがなし崩しになっていく時、
そうなってしまっている場所、既に崩壊している場所に、
どうして杭を立てに行っているのか、わからない。


一緒に呑み込まれ、疲れる為にその場にいる。
その為に何ヶ月も苦労しているような虚しさ。
わけがわからなくなってくる虚しさ。
徒労感の中で、プロジェクトは終わっていく。
分かち合い、吟味し、振り返ることさえもせず、
集約し、検討し、より良いものを目指すこともせず、
知恵を出し合う前に、誰かに押し付けて責任を取らせ、
何かをした気分になって、誤魔化していく。


駿馬もいないが駄馬もいない。みんなで走ったから、
それでいいじゃないか、各々移動したんだから、
それでいいじゃないか、そんな思いが透けて見える。
「終わりよければ全てよし」だと、うそぶく人もいる。
全然良くなくても、そういう言葉で締めくくれば、
次のステップにはや進んでいるような錯覚を生む。
実は全然進めていないのだが。


大きな一歩でも小さな一歩でも、充実感や一体感を
共に味わえるようなものであれば問題ないが、
時間潰しをして仕事内容を振り返らないのであれば、
何もならない。なのに、伝家の宝刀で全てを打ち切る。
「みんな疲れているんだから、これ以上やらなくていいでしょ」
「やりたかったら、やりたいひとだけやれば」


集団の中で仕事をすると、いつでも聞く魔法の呪文。
みんなが疲れないように分担するのではなく、
自分が疲れないように、その場に関わらないで存在するための
魔法の呪文にみんな絡め取られている。
肝心な時に管理職は出てこないし、「大過なく」の大義名分に
手足となる人間の徒労感など、省みる視点は無い。


でも、諦めきれない自分を持ち続けなければ。

<育てられる者>から<育てる者>へ 関係発達の視点から (NHKブックス)

<育てられる者>から<育てる者>へ 関係発達の視点から (NHKブックス)

共に生き、共に苦しむ

共に生き、共に苦しむ

娘よ。発表会のグループレッスンから離れ、
ユニットで練習して、再度グループに合流する娘よ。
何か一つにまとまって、成し遂げようとする時に、
個々人が要求される水準に達しようと励む努力を、
その厳しさと辛さを、今のうちに肌で感じ取ってほしい。
形になって見えるのは、ほんの一瞬。
ただ、自分の持ち場を守っている事が、その場を支え、
全体を支え、最終的に自分自身を支える。


楽しいだけ、面白いだけ、何となく時間が過ぎただけ、
それを「共有」だと錯覚しないように。
努力を実らせる過程は、自分に恥じない為の道のり。
自分が納得できる前に、何も考えずにOKを出して、
できたような気分になってはいけない。
娘よ、何事も今から経験。
私が子ども時代できなかったことを、今、君はしている。


仕事での鬱、やりきれなさ。職場から帰ってきて、
再び君と取り組む音楽。「背伸び」をしながら努力する意味。
大勢の中で力を合わせる意味を、少しでも知ってもらいたい。
頑張る意味を。自分が何故頑張り続けるか、その意味を。
かーちゃんは、そう思ってまた職場で過ごす。
虚しさの束が自然発火し、
怒りの2次感情に振り回されそうになりながら、
燃え尽きそうになりながら、ずっと熾き火でい続ける。


君がいるから頑張れる。君と共に頑張れる。
娘よ、かーちゃんはそう思いながら
自分自身を励ましている。
君は? 君は?

“共に生きる場”の発達臨床

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ひとがひとをわかるということ―間主観性と相互主体性

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