Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

思いを馳せてみれば

「ブラック・ペアン1988」読了。題名からして? 
医療関係者でなければわからない、ペアン。
真っ黒な表紙のハードカバーにイラスト。どうやらこれがペアン?
やっと時間を作って読めたのが先週。読み出すと一気に。
チーム・バチスタの栄光」から始まる一連の海堂尊作品の
ファン・読者にはわくわく楽しめる作品。間違いなく面白いと太鼓判!
一癖も二癖もある主人公達の若かりし頃を、切り取る手法。
無敵に見えるあの方もこの方も、若かりし頃は・・・。
後々の作品の伏線・種あかし・更なる伏線を織り込んだ心憎い仕上がり。


何よりも、若さゆえの感傷・未熟さ・迷い。
そういうものが描写されていながら、不快感は感じられない。
どちらかというと、その若さゆえの様々な思い・行動がほほえましい。
そんなふうに受け止めてしまう事自体、自分が年を取ったという事か。
おまけに短期間のうちに先輩・上司・同僚との間で揉まれ、
様々な経験を積み、呻吟、切磋琢磨を繰り返すうちに成長する過程を
医療を背景にした「成長譚」として捉えている自分がいる。


社会ドラマ、権力闘争、因縁、色んな捉え方ができるが、
どんな先輩・上司・親・指導者にも「若かりし頃」がある。
意にそぐわぬ仕事も自分の血肉となり、血脈となり、人脈となる。
実力を蓄えていく事が、どのような凄まじい経験を背景に持つか。
医療の世界の「技」、職人気質、政治、業者との癒着、
そういうものがほんのチラリと見え隠れする虚構の世界。
そこに生きる登場人物に感情移入して読み込み、没頭。
この読書の快感は、単なる実写化では得られない。

ブラックペアン1988

ブラックペアン1988

死因不明社会―Aiが拓く新しい医療 (ブルーバックス)

死因不明社会―Aiが拓く新しい医療 (ブルーバックス)


自分自身の仕事場――命のやり取りは少ないが、
個人の人生に全く影響しない、というものではない。
時には、かなりの覚悟で関わらなければならない時もある。
若い時には見えていなかったものが見えてくると、赤面。
よくぞ何も言われずに来たものだと、自分の傲慢さ・荒削りさを
苦々しくも切ない思いで「今の私」は振り返り、受け止める。
こういう所が、「まだまだ年の割に甘い」と言われてしまいそうだが。


上の世代の人間が下の世代の人間に伝えたいもの。
数え上げればきりが無いだろう。
親として、先輩として、上司として、指導者として、様々な立場から。
師である事が、上の人間を鍛え、弟子である事が下の人間を学ばせ、
持ちつ持たれつの関係で両者が成熟する過程は、片方が欠けては成立しない。


後輩、愛弟子、教え子、子飼いと見込んだ人間が期待外れだったり、
教えに背いたりということがあれば、かわいさ余って憎さ百倍にもなる。
ある意味、そんな思いがしてみたいと思わないでもない。(笑)
世代的にも職務的にも、「機会」に恵まれないまま来た様な気がする。
職人芸の技として伝えたい部分、精神論として伝えたい部分、
現実には同時に伝えきれるものではない。
バランスよくどちらも、というわけに行かない目に見えない世界。
「伝える」ということは難しい。
そして、深謀遠慮で巧みに布石を打っておくことも。


様子や顔色を伺い、無邪気さを装い、狡猾に盗み見、なんて芸当。
よほど気が利かなければ出来ない。お陰で、しなくてもいい遠回りをして、
やっとここまでしか来られなかったなあという感慨の方が強い。
かといって、これが自分の「分」なのだ。「節」なのだと、
割り切って開き直っている部分もある。図太くなったものだ。


仕事における熟練というものは、何かしら不純物を弾くのではなく、
理屈では割り切れぬものを、理想では語れないものを、
「清濁併せ呑む」過程、というような気がしてならない。
簡単に言い換えれば、土壇場に強いということであり、
もはや後戻りできない事をいたずらに騒ぐことなく、
今更蒸し返さないで「事に当たる胆力」というものだろう。


心身ともに疲れていると、自信が無くなり要らぬ迷いが入り込む。
ぼやきながらもサクサクと物事を処理する力があるかないか、
実は「見切り」を付けて処理する力が無いと、残り少ない仕事時間、
仕事人生、片付くどころではないわいな、と思うようになってきた。


「ここまで伝えたい」と思う気持ちを抑えて、「切る」事は、
冷たい行為のようにも思える。諦めが早いようにも感じる。
されど、その場に関わり続けるよりも別の場に移行しなければ、
もっと影響が出る場合とてあるのだ。胸が痛みながらも、「切る」
残してきたもの、果たせなかったものを忘れ去る事はできない。
しかし、救世主ではないのだから、1匹の羊を助けるために、
99匹の羊を置いて探しに出かける事はできない。


仕事を覚える過程では見えない事が多い。
技術以前の情熱や理想で象(かたど)られているから。
何がしかの技術を使いこなせるようになってきた時、
その隙間に漏れ落ちていくものの多い事かに気付かされる。
唖然とし、憤懣やるかたない思いに打ちひしがれ、齷齪し、
もがき苦しんだ末に、「分をわきまえる」形で決着を付けざるを得ない。


そんな事が当たり前の日常で、何も感じずにいる訳ではない。
そうせざるを得ないぎりぎりの所に行く一歩手前で、
自分を守ると同時に、別の側面を守り固めておかないと、
一気に落城しそうな脆さ・危うさがやたら目に付くようになり、
気になって仕方がなくなってきたからだ。


中学生の頃、歴史の時間の一番最初に教師が言った。
「歴史とは原因と結果の積み重なったものだ。
結果が次の出来事の原因になる。永遠にそれば続いていく」
そういうような話が前置きとしてあった。
小柄な、名前も忘れてしまった男性教諭。
おそらく、その教師の言いたいことの殆どを理解する力を、
中学生の私は持ち得なかった。
しかし、彼の述べた言葉を「記憶する限り」においては、
その教師が「伝えたかった思いを意識する」事が、かろうじてできる。


自分が今の職業に就いた理由が、今もってはっきりしない。
但し、残したり伝えたりという過程に執着していたのかとも思う。
若い頃は若いなりに、自分らしさを持っていたかもしれないが、
自分のスタイル・ポリシー・理想さえも確立していなかったのに、
何を残したり伝えたりしたかったのか・・・。


ただ、残された年数を思うと仕事として残したい事伝えたい事を
意識せざるを得ない年齢に差し掛かってきている。
干支が一回り。それしか残されていないのに、
形に残る事が少ない仕事。やり甲斐も虚しさも目に見えないまま。
折も折、『ちりとてちん』は師匠を失った弟子たちが、
新たな流れを作る物語に変化しようとしている。


『ブラック・ペアン』の大物教授もそうしようとは試みたのだろうが、
幸か不幸か、その立ち位置や個性、役割によってかよらずか、機能不全。
「新たな流れを作る」ということの難しさ、
主流であり続ける事の危うさを浮き上がらせていた。
本意ではなくても、機会を逸したことで誤解の連鎖が続くことも多い。
野心と思惑と誤解の連鎖が絡まった白い巨塔象牙の塔ならば尚更の事。
権力を握れる立場があれば、裁量が利くというのか。


権力とは無関係でありたいと思うのは、もはや投げている事なのか。
子供染みたファンタジーに過ぎないのか。
仕事の中に沈む澱の深さにうんざりしつつ。
ここ何日かの読書の余韻に浸り・いや、実際は、
この文章も少しずつ書き足し書き足し。
・・・今日も昼食をとる暇など無い。

新潮文庫「白い巨塔 全5巻セット」

新潮文庫「白い巨塔 全5巻セット」

聞く技術 答えは患者の中にある 上巻

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