Festina Lente2

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語り口、声の響き

賑やかなおしゃべり、マシンガントーク、口角泡を飛ばす、
立て板に水、重い口を開く、訥々と話す、ポツリポツリと語り出す。
様々な語り口があるけれど、どのような話し方しゃべり方があるか、
視覚から捉えるか聴覚から捉えるか、
方言、男言葉・女言葉、標準語、など言葉使いの違いから見るか。
実に様々な捕らえ方があるのだろうけれど・・・。


大学1年生の頃、国語表現論という授業があった。
何を主眼として講義されているのか、ちっともわからなかった。
若い講師は本日の議題・論点は何であるか、最初に言わない。
最後にまとめようとしていたのかも知れない。が、
長い90分の講義の後半は、何が言いたいのか理解できないまま、
ぼーっと座っていた私には、面白くも無い(としか感じられなかった)講義の
あったかなかったかわからない「まとめ」など頭に入るはずも無い。


そう、面白く無い授業だった。国語表現論。
選んでいる題材は今から思えば色々あった、とも思う。
伝えたい事も講師なりに、あったのかもしれない。
でも、課題もなければワークショップ形式で、実習があるわけでも無い。
座って聞いているだけ。何らかの作品を作るわけでもなく、添削も無い。
受講能力に欠けていた、マッチングミスと言うか、選択ミス?
何を基準に講義を受けて、どう評価されるのか、
全くわからない受講した大学1年の講義、選択科目。
失敗したと後悔したまま、適当な成績を貰って単位を取得。


国語表現の授業だけれど、先生自身何を表現したかったのか、
全然わからない授業だなあと思っていたら、
何年か後に高校の授業の選択科目に「国語表現」というのができていた。
今でもあるらしい。現場の先生方はどんな授業をしているのだか。
語り口、そういうものを耳から受け入れることなく
読む世界が殆どでやってきて、目で見る語り口さえも目新しい世界。


よくよく考えれば、擬音語擬態語という習い方をしたのに、
今ではオノマトペと言っている。いつからそれが主流になったのか。
でも、視聴覚教材が発達しても語り口について何かあったっけ?
個人的に民博の各地の方言で語る「桃太郎」が衝撃的だったけれど・・・、
そういうのは視聴覚教材にはならなくて、単に民俗学の取材?
あ、そういえば大学でも視聴覚芸術論っていうのもあったな。
何だったんだろう? あれ芸術表現論だったっけ?
音楽美学も取ったけれど、耳からの情報の受け止め方って・・・。
きちんと学校で習ったのは、いつが最後だったのだろうか?

ベネッセ表現読解国語辞典

ベネッセ表現読解国語辞典

わたしを語ることばを求めて―表現することへの希望

わたしを語ることばを求めて―表現することへの希望


何年も仕事をしてきて、一応大人になって、親にもなって、
子供の質問にもそれなりに答えてきたけれど、
ちゃんと方って聞かせてやれているのか、・・・微妙。
「語り口」「話し方」それはきっと文章で言えば文体のはず、
けれど、実際の会話でなく読むだけならば、
実際に声として届く訳ではない。そこが実に微妙。


毎朝の『ちりとてちん』から流れてくる小浜の方言、
落語の人物の口調、それは100%本物ではないかもしれないけれど、
自分の中に何かを感じさせる語り口、語り口調、耳に響く言葉、
フレーズ、真心、感情のこもった何かしらを訴えてくる。
順ちゃんの、妙に真理をついている決めの台詞。
ナレーターの大阪弁の呟くような声。
(彼女の普段の喋りからは想像出来ないような、味のある雰囲気)


話しよう言いようによってはきつく聞こえがちな台詞も、
文字から言葉として、声に出して表現されると、
こうも違うものだろうか。「物は言いよう」とはよく言ったものだが、
耳から受け取る響きが、これほどまでにこたえて来るとは・・・。
TVから聞こえてくる言葉に「してやられる」ということは、
普段の会話が、それほど殺伐としているのか。


優しい言葉、言葉の響き、音の響きが持つ微妙な意味合いを
耳から聞いて覚えないと、優しい言葉の響きを知る事ができない。
学ぶ事も無いだろう。そして、言葉の響きから優しさが失われる。
単なるマニュアル通りの言葉掛け、無いよりましかもしれないけれど
感情が込められているかいないか、その響きを感じ取れるか取れないか。
その微妙な差異を受け止める感受性を育てる事ができるかどうか、
そういう観点で論じられる事が無かったならば、
学ぶ機会が無かったならば、どこで身に付けていくものなのか。


少なくとも生活の中で親子間で、友達との間で、師弟間で、
仕事仲間内で、心の交流がある生活体験の中でしか養えないものを、
直接言葉のやり取りでしか育てられないものを、
心を暖め、励まし、疲れを労わり、ほぐし、憤りを宥めすかす、
そんな言葉の響きを、語り口を、語調を、どこで身に付けるのか。
江戸もの、お江戸言葉、江戸しぐさ、江戸ブームの影に、
メールや文字文化ではない、目から耳から入ってきた生活の知恵が、
言葉一つとっても失われつつあるのだと、急にはっとさせられる。


落語が聞けない世の中になる。落語が通じない世の中になる。
人情話がわからない、面白さが伝わらない。
話し手の気持ちが聞き手に通じない。
それはどれほど恐ろしい世界であることか。
文字の書き手の気持ちが伝わらないことも恐ろしいが、
面と向かった相手に、自分の言葉のニュアンスが通じない、
気持ちを通じさせる事ができないのは、もっと恐ろしい。


自分の語り口が、当たり前に人と接しているのではなく、
単なる不快な語調、耳障りな音、不協和音でしかなかったのなら、
そんな事をふと考えてしまう。
目で追っているお江戸のファンタジーを読みながら、
実は脳内で音に変換して自分の耳に届けている、
それが本来の読書なのだが(そう信じているのだが)
その、脳内変換の語りかけの語調が
ある程度まで共通のものでなければ、一方通行か誤解に化けるかも。


話し手・語り手から聞き手へ、書き手から読み手へ。
伝える言葉は伝えたい内容と共に、
気持ち・心を伝える響きを内包しているかどうか。
そういう受け手を育てる教育が、生活が、知恵が、
毎日の中でやり取りされているのか。


ふと、振り返りたくなる今日この頃。
自分は娘にどうしてきたのかはっとする日々、させられる日々。
心の中で自分に声を掛けながら、意識化させる今日この頃。
癒しが欲しい、安らぎが欲しいと無いものねだりの弱さを背負い、
温かい言葉を求めて落ち込んでいる日々。
乳母(おんば)日傘が必要なのはどちらの方だと、未だに赤面。

言語行動における「配慮」の諸相 (国立国語研究所報告)

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現代語から古語を引く辞典

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