Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

それぞれの悩み

本日職場は34度。空調なんぞ効いているのか、いないのか。
何だか体が馬鹿になりそう。雨だといっていた天気予報、
一体どういうつもりなの?
そんな今日、新人とランチ。気になっていたもので。


案の定、青息吐息で胃が痛いとのこと。
疲れているのがわからないぐらい疲れていて、朝が起きられない。
目が覚めても布団から出たくない。
何かあっても、どう話をしていいのかわからない。
上手くしゃべれない自分が悔しいけれど、どうしようもない。
などなど、食事をしながらぽつぽつと聞き出した。


うーん、まあ、よくわかる。
というか、若かろうと年を取ろうと、そういう時期は必ずあるし。
その後、同い年の室長に少し話をする。
彼も苦笑して「誰もが通る道だからなあ」と言う。
そう、誰もが通る道。
気持ちもわかるし、理解もできる。


しかし、代わってあげる事はできない。
そういうもの、経験して貰わなければならない事。
新人ならば尚更、色んな事が多すぎて戸惑うのは必定。
その落ち込みや悩みを糧にして、慣れて行き、
少しずつ今の仕事を覚えて貰うしかない。
どんな世界のどんな仕事でも、そういうものだと思う。

デジタル社会のリテラシー―「学びのコミュニティ」をデザインする

デジタル社会のリテラシー―「学びのコミュニティ」をデザインする


ピアノ個人レッスンのお迎え。普通に元気。
良かった。やっぱりマイペースで進める個人レッスンの方が、
このこの性分に合っているのだろうか。
アンサンプルのグループ練習の時は元気が無い。
みんなに合わせるという事も積極的に学んで欲しいので、
一人っ子の親としては、放り込んでいるのだが。


帰り道、娘がぼやく。学校が面白くない。
どうして? かーちゃんとしてはドキッとして尋ねる。
だって、先生はわからないっていう子にばかり、教えているんだもの。
30分ぐらい同じ説明ばかりして、ずっとその間、暇。
自由帳にお絵かきしたりできないし、何もできないし。


その間どうしているの?
あのね、周りの友達とおしゃべりしているか、ボーっと待っている。
退屈で退屈で、学校は全然面白くない。
1年生の時の先生が良かった。教え方も上手で面白かった。
社会も算数も学校の勉強はつまらない。


うーん、困った。恐れていた事が起こってきたか。
去年も新しい担任とそりが合わず、1年の担任を恋しがっていた。
それ以上に、自分の興味を満たす事ができず、マイペースな娘にな、
味気の無い授業が退屈でたまらないのだろう。
2年の時の担任は、それは1年の範囲ですと言って、
鉛筆の持ち方指導はしなかったし、同じ子ばかり贔屓していたし。


継続した指導というより、与えられた役割だけをこなすタイプの担任だった。
娘は作文や発表に、すっかりやる気をなくしていた。
母親としてはフォローの仕方に困った。
休日勢い家族で出かけては、気分転換を図ったものだ。
今年の担任は初めての男の先生で、機嫌よく登校していたのだが。

学びのための教師論

学びのための教師論

小学校 キャリア教育と授業プログラム―自分らしさを発見する授業

小学校 キャリア教育と授業プログラム―自分らしさを発見する授業

大阪府は35人学級をやめる、低学年の少人数制をやめるといったり、
教育施設を民間に払い下げたり、教員を初め公的サービスに携わる人間の
生活の基盤を切り詰める政策しか打ち出してこない。
小中学校の先生方は、府よりもお給料はいいのだろうか?
いずれにせよ、士気が下がっている事は明らかだし、
一生懸命やっても能力給でも無いし、ボーナスも差が付かない。


査定するのは管理職だが、一般の企業が導入した結果、
職員全体の士気が下がったという前例のある
悪名高い勤務評定を復活させている府教委だから、
大阪府全体同様、教育の行く末など、しれている。
文科省そのものが、NHK論説委員に批判されていた。
教育職公務員だけ優遇できないと、教育全体の見通し(採用・研修)が、
国家100年の計どころか、10年先も見えない状態で仕事をしていると、
なじられていたくらいだから。


うちの娘のやる気のなさは、家庭でフォローしていくしかないのだろうが、
それさえも限界がある。二人担任制、副担制を取る地方の小学校は、
全国テストでもきちんとそれなりの結果を出していた。
進度の異なる生徒に対してのフォローを、学校で取り組む教育体制、
その必要性を感じて、9歳の壁を乗り越えさせようと意識する、
小学生のうちから「やる木の芽」を摘まないように支えるという発想、
そういうものが、今の教育には無い。


教える内容を減らす、ゆとり教育、時間数軽減、
その結果いいことなどありはしない。
お馬鹿でやる気の無い国民を量産して、
国政に口を出さない人間をふやそうとうする、
一部の人間にとって都合のいい体制を維持したいだけの教育政策。


公的サービスは営利企業ではないという事が、わから無い国家。
教育は先行投資であり、軽視すれば予防医療を無視した医療政策と
同じ次元の泥沼だという事に、気が付かないお役人。
家庭内教育力の低下が叫ばれて久しいけれど、
公務員だから安い給料で働いて当然、切り下げられて当然と見下されては、
みんなやる気を無くすだろう。
天引きで、同じだけ税金を払っているのだから。
減価償却など認められないまま、身一つで仕事をしているのだから。


新人がばてて、仕事について行くのに苦労している時、
職場内教育やフォローでまかなっていても、限界がある。
有給休暇や、その他の権利が保証されない限り、
環境の激変の中で潰れて行く人間は、確率的に出る。
それが当たり前だからと放って置くのか、対策を講じるのか。


教室内で落ちこぼれに手を差し伸べるのと同様、
置き去りにされているその他大勢。
1匹の羊を探すために99匹置き去りにされているうち、
みんなどこへ彷徨いだすかわからない状態の、学校現場。
かーちゃんは、心配だよ。


そう、職場の新人も心配だが、何だかんだ言っても、
ある意味大人。ある意味社会人。哀しい事に、
吾が子より接している時間が長いので見守る事もできる。
自分が先輩にしてもらったように、ランチをおごった。
まあ、それくらいの息抜きは提供可能だからね。


それよりも、娘の顔は1日殆ど見られないのだから、
何よりも、我が子の愚痴が気になる。かーちゃん、親馬鹿だからね。
10日後の保護者懇談が、今から気になり始めているよ。
仕事も修羅場、山積みだけれどそれ以上に、
吾が子の鉛筆を握る先が、どんな未来を描いているのか、
教室の窓からどんな景色を眺めているのか、
気になった、今日だよ。

学びのためのカリキュラム論

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