Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

『カンフー・パンダ』に思う

親子3人、夏休み映画三昧も今日が最期。
前回、予定がずれ『ハムナプトラ3 呪われた皇帝の秘宝』に。
http://d.hatena.ne.jp/neimu/20080809


今日こそは予定通り、『カンフー・パンダ』。
この映画、今年から机を並べる新しい同僚の評判が良かった。
崖の上のポニョ』よりも、お金の払い甲斐があったとのことだが、
全くタイプの違う映画だから、同じ土俵に上げられない。
敢えて言うならば、ポニョは意識が混沌としている幼児向け、
カンフー・パンダのポーは、「自分」を意識している年齢層向け。
という訳で、ある年齢以上の子どもにも、
大人にも感情移入し易い部分がある。それはどこか。


様々なコンプレックスとアイデンティティ
自信を持つこと。認められること。怒りと許し。
愛情。親子、師弟の関係。
教育学や心理学のモデルとなるエピソード溢れる映像。
これ1本でカンフー映画の歴史を振り返る論文も書けるし、
慙愧の念に耐えない親子の断絶について論じることも出来る。
いや、なかなかに面白い映画。


で、私にとってはどうだったかというと・・・。
これから思春期に向かう娘を持つ親としては、楽しい映画だけでなく、
胸の痛むような感覚が押し寄せてくる映画だった。
自分自身の親子関係を振り返っても、娘との関係を思い返しても、
考えさせられる、辛い思い出が甦る、仕事上反省させられる、
公私どの部分をとっても、繋がってくる部分、
リンクする内容があって、思わず分析して考えたくなる。
そういう映画だった。


思わず声を出して笑いながらも、悪役を憎めない。
期待に応えようとして認めてもらえず、恨み骨髄に達して、
復讐に燃える傲慢な自信家を、軽蔑しきることなど出来ない。
憧ればかり強いオタクで、親の期待に逆らえず半ば流されて生きている、
外見と内面のギャップ、自分を信じて生きていくのが難しい、
ドン臭くて自分の良さを見出せずにいる、ボテ腹の主人公を笑えない。


養い子で教え子を、愛弟子達を育てる中での「誇り」のありよう。
微笑を忘れ憂い多き老師の胸の中を思うと、切ない。
過ちを犯したと思い悩む弟子を見守り、教え諭しながら
偶然は無いと言い切り、運命の必然を桃の木と花に喩えて、
様々な思いを秘めつつ種を植え、寿命を終える導師の姿。


自己実現に至る葛藤、シュトルムウントドランク、理想化、投影、
代償、父親殺し・・・何を切り口にするか。心理学関係でまとめてもいい。
修行、鍛錬、丹田、気、集中、創意工夫、無心。
躾、礼儀、礼節、仁義、孝養、天意、道、どう捉えるか。
さすが中国の文武を背景に持つだけに、奥が深い。
東洋と西洋の双方から見ることも出来るし。


それにしても、親である「育てる側・教え導く側」としては、
我が子を導き教える過程で、その実力を贔屓目無しに鍛え上げ、
目標に向かって進ませる事が、親の欲望・願望・期待を押し付ける事と、
紙一重だと改めて突きつけられているようで、辛かった。
厳しさの裏返しが、愛情だということを伝える難しさ。
完璧ではなく欠点を併せ持つからこそ、そのままを受け入れ、
信じ、認め、誇りに思う事が出来る愛情の存在。
頭ではわかっていても、実践するのは難しい。


かつて自分が親の期待に沿う事が出来ず、未だにその感覚を引きずり、
年老いていく過程で、どういう形で報われるのだろうかと、
考えずに過ごすことは難しい。それくらい親の影響は大きいものだ。
ある者は背き反発し、ある者は模倣し従い、いずれにしても、
自分の人生に影響する者から逃れることは出来ない。
100%のオリジナルなどありはしない。
自分は自分以外の人間のレールの上を走るか、新しい道を造るか、
脱線するか、いずれにしろ既に様々な道が錯綜している中、
この世に生を受けている。


人の親になって10年足らず。自分の親を振り返り、
こんなことは絶対するまい、言うまいと思っていたことを、
繰り返している自分を見出す、その時の後味の悪さ、情けなさ。
また、倣いたい、真似をしたい、同じレベルを維持したいと思っていて、
自分には出来ないと思い至る時、親の心を思い遣る時、
そのやるせなさ、何とも言えないあの気持ちを。


自分を他者と比較され深く傷つき、自分の望むものを認められず、
自分の生きがいをけなされ、親のものさしで計られる事に反発し、
自分の在り方に自信が持てず、いい加減なことしか出来ずに過ごす日々。
何をしても、結局は親の承認が欲しいのではないのか。
他人の賞賛が欲しいだけではないのか。
自分自身を認められないのは、自分の弱さのせいではないのか。


かつて葛藤した思いが甦るような、そういう場面が飛び込んでくる。
カンフー映画、アニメだと思っていたら、虚を突かれた。
ヤケになった主人公がボテ腹を揺らしつつ、口一杯に食べ物を頬張る。
ああ、メタボな私のイライラ解消法と同じ。
食べるか飲むか、年齢的に食べるが優先、その結果は・・・。


立山から帰ってきた娘と、久しぶりに一緒に入浴。
最近別々にお風呂に入る事が多いので、ふざけてのっかってきた娘。
かーちゃんのお腹を触って、とんでもない事をのたもうた。
「ステーキがパン生地になってる!」
以前掴んで薄かったのが、コネコネぼよぼよのパン生地になっているそう。
ああ、カンフーパンダの主人公ならば、ボテ腹ボヨヨン拳で敵を撃退。
かーちゃんは、かーちゃんは、このボテ腹で何を撃退すれば?


コンプレックス? 仕事の悩み? 老眼不調? ばあばの認知症
公私共々撃退したいことは沢山あるが、娘よ、
かーちゃんのこのボテ腹は、不摂生の賜物ではあるが、
君が高齢出産のかーちゃんから、無事に生まれてきた勲章でもある。
ボテ腹ボヨヨン拳のかーちゃんは、「かーちゃん」になれが事が、
一つの励み、救い、そして、これからそれを全う出来るかどうか。
これが大きな問題。


製作者側は「自分を信じなさい」というメッセージを、
子ども達に伝えたかったのだと言う。
しかし、信じて貰えなかった人間が、自分を信じるのは難しい。
愛され、信じられ、任せられ、認められた経験が、
愛し、信じ、委ね、認めることが出来る。


頭でわかっているだけでは駄目で、内面から輝くように、
自然にそのように動けるかどうか。
素直に生きることは、知恵と知識と力を持って、
バランスよく生きることは、難しい。


それは「生きる」修練、鍛錬、道を極める事に通じる。
「特別な秘密なんて何も無いんだ」という白紙の秘伝。
親はそれを日々実践しなければならない。
楽に生きる、得だけする、嫌なこと苦しいことは何も無い、
そんな「いびつな生活」をすることは出来ないから。


特別なものを持たずに、日々をこなすことこそ難しい。
実は日常生活をやり過ごすには、熟練の技が必要だから。
家事も育児も仕事も、洗練された技術の上に成り立つ。
愛情も教育も、心余りて言葉足らずでは困る。
どちらも足りなければ、なおのこと困る。
ささくれ立たないように毎日を過ごすには、匠の技が要る。


映画のクレジットの一番最後、
老師と主人公が仲良く並び、食事を分け合うシーン。
ああ、何とも言えぬ感慨。
カンフー・パンダ』笑いながらも、心痛む映画ではあった。
私にとっては。

カンフーパンダ完全ガイドブック

カンフーパンダ完全ガイドブック

Kung Fu Panda

Kung Fu Panda