Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

目が行くところ

比較の問題では無いけれど、人間は比較する動物。
普通はあれこれ比較せず、生存競争の本能に従って生きるのが動物。
人間はあれこれ検討、推敲、練りに練ってと言えば聞こえはいいが、
とどのつまり、現状に踏みとどまることを良しとせずに、
別の何かを夢見たり憧れたり無いものねだりをしたりして、
よりよき状態を求めて悪あがき、じたばた、すったもんだ、あくせく。
可能性を求めると言えば前向きだが、要は諦めが悪い。
で、目の付け所は認知に問題があるから常に偏る。
人様から見たら、「それはないでしょう」の世界。
ああ、我ながら情け無い。


例えば・・・、食欲の秋だが私は順調に体重が減っている。
何のことは無い、夏痩せでも何でもない。
十分に食べられないから。口がうまく開けられない、
思い切りよく咀嚼できないから。
痛みや、無理やり仮歯の形に作ってぐらつく左下前歯。
いずれ抜くとわかっていても、自分の体の一部の歯。
可愛さ余って憎さ百倍とまでは行かなくても、不本意な状態。


右上前歯仮留めのブリッジ。小さなネジの様な物があって舌に触れる。
これが気にしだしたら、とてつもなく不愉快。
口の中は開けていても閉めていても気になる所だらけ。
小人閑居不善を為す世界。仕事の無い休日(本日代休)、
片付けものの合間に気にしているのか、気にしている合間に片付けているのか。
まるで禅問答。我夢の中で蝶となりしか、蝶の夢の中で人間となりしか。
胡蝶の夢のような優雅なものではないが。


というわけで、とある医療番組を見ていたら人工心臓を付けて、
心臓移植を待つためにドイツに渡る女性。人工心臓の手術もさることながら、
外科手術の人間はどうしてあんなに歩けるのかと不思議になるくらい。
(手術していなくても痛みで歩けない人間からは、想像もできない体の動き)
で、無事に飛行機も車も乗り継ぎ、ドイツの病院へ。
小さい娘さんもいるのに、何て大変と思いながらも、
ついつい視線は口元へ行ってしまう私。


そう、比べるべきは手術の必要など無い有難い健康な心臓。
恵まれた自分の日常生活に感謝すべきなのが当たり前なのに、
目が行くところは、その女性の口元。
心臓が悪くても、真珠のように歯、綺麗で清々しい口元。
これならしっかり食事が取れるから、手術さえ成功すれば、
美味しくご飯が食べられるだろうなあ、なんてことを考える。
私って本当にどうしようもなく不埒な人間だ。
比較の問題ではないというのに。

オーラル宝田メソッド―10歳きれい!10年後もきれい!

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さらに医療番組は続く。脳内の動脈瘤を手術する。
どこでもさじを投げられ、頼るところは「ここ」という名医の手術。
それでも、その家族への説明を見ていると、そういう説明じゃちょっと・・・
そんなふうに感じてしまう私は、何故?
リスクを伝えられていると言うよりも、相手の物の言い方から。
揺さぶりを掛けられているように感じてしまう、私の認知のあり方、
心性って・・・、問題では?


脳内血管に金属のクリップが留められて、動脈瘤が潰されて小さくなっていく。
別の手術では、絡まった血管を避けながら、問題の箇所を切り取っていく。
出血と血管、悪戦苦闘する医師の姿を見ながら、私が感じていることは・・・
どうやってこの年で、老眼と付き合いながら術野を確保し、
細かい血管を、患部を、針と糸を操るのだろうという疑問。
そう、目が行くところは手術の成功ではなく、そんなこと。


そして、カメラが追う家族への経過報告の際、開いた箇所を、
閉じているのは別の人なんだなあなんてこと。
そう、仕事をしている時、最初から最後までを一人で通すわけじゃない。
出来上がりのホンの一部をカメラの前に呈示するだけ。
見えてない所で家族は苦闘し、医師は苦戦し、良い結果を求めて、
あらゆることを想定して受け止める準備をする家族、
持てる力を出し切って最善を尽くす医療者、
そういう構図を醒めた目で見つめてしまう。


長月9月は娘の誕生月だが、どうも私の認知の中では、
家人が病に倒れた月として深くえぐられているらしい。
月半ばの緊急入院時、娘の誕生日と重なった転院日、
検査を繰り返しても訳がわからず病因が掴めず、
いたずらに過ぎていった(ようにしか感じられなかった)ひびの記憶が、
地獄の釜のふたを開けたように、立ち上ってくる。


納得の行く説明が貰えない。最初からわからないのでどうしようもないと、
予防線を張られてしまって、何がどうなのかわからないまま不安な毎日。
ひと月以上も経ってから、やっと宣告された過酷な内容を、
今となっては既に嵐を通り過ぎて、
改めて「受け止めながら生活」している内容だというのに、
そのときの衝撃の余波が響いてくる。9月は、秋はトラウマと戦う月だ。
その苛立ったささくれ立った気持ちが、自分の健康状態とシンクロしている。
多分、多分ね。歯だって、その他の部分だって。


わかっていて、どうすることもできない。


比較の問題では無いけれど、人間は比較する動物。
いつも「隣の芝生は青い」とわかっていながら、やっかむ動物。
うちはうち、よそはよそとわかっていながら、いじける動物。
比較しても気にせず、我一向に関せずで進む道もあるというのに、
自分自身で落ち込む種を探して歩くような、
認知に問題のある方向へ流されていく傾向。



鼎の軽重を問うどころか、きちんと問い、聞くことができなくなる。
不快な症状は人間が持っているもともとの傾向、
「見たい物を見、聞きたい物を聞く」傾向を飛躍して歪める。
その結果、見たくないものをより多く見てしまい、
聞きたくない言葉を聞き咎める結果に。
双方向性を持たないコミュニケーションは、そのまま自分への、
もしくは相手への一方的な疑い、攻撃となり、
よしんばよし、後から何らかのフォローが入ったにせよ、
それを受け入れる余裕さえなくなってしまうことになる。


比較の問題ではない。自分の問題。自分の受け止め方の。
わかっていて、どうすることもできない。
自分自身のことだとわかっていながら、どうすることも。
月見れば 千々に物こそ悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど。
そして、人間は自分の身だけかわいいから、自分だけ優先させたい。
自分だけの秋では無いとわかっていながら。


9月は不眠症の秋。過覚醒の秋。
理屈はわかっていても打ち消すことのできないものと、
理性ではなかなか相手に仕切れないものと、
向かい合う夜が始まる秋だ。
丸3年が過ぎ、4年目4年目と砂時計を数える。
何もかもが不安の材料に引き合いに出される。
細切れになったはずの記憶の底から、継ぎはぎの幽霊。
ハロウィンには早いと言うのに、絶え間なく押し寄せる幽霊。


比較の問題ではないと言うのに、思い出して虫干ししても、
繰り畳んでも繰り畳んでも、仕舞いきれないパンドラの箱
9月はFructidor フリュクティドール(果実月)から
Vendémiaire ヴァンデミエール(葡萄月)へ。
悩みの種ばかりが実って房になっているような気がする。


実るほど頭を垂れる秋には程遠い、小人閑居、
痛み悩みに追い回されつつ、家事に没頭する一日。
忘れたい物から逃れようと、片付けものに逃げる一日。
グリナ(グリシン)で気休めする夜。

心の輪郭―比較認知科学から見た知性の進化

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