Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

『ジーン・ワルツ』と『真昼の月』(海街diary2)

ボランティアの先輩が、呟く。「あの標語って嫌よねえ」
この時期だからなのか、とうとうそうなったからなのか、
12月の世界エイズデーが近付いてきたからなのか、
大阪予防キャンペーン」の標語。
直接的といえば直接的だし、無味乾燥というか、直球というか。
でも、オブラートにくるんで言っても仕方の無いことだから、
センセーショナルなキャッチコピーでないと、人が振り向かないのだろう。


大阪では2日に1人、HIV感染が増えています。って、きっともっとでしょう。
検査してわかるのは検査を受けに来る人がいるからであって、
その影に無症状で、自分だけは関係ないと構えている老若男女は一杯。
高校や大学の保健の授業ではないけれど、STDに関する話題はオープンでなければ、
コミュニケーションが取れない世の中になって来ているという訳で・・・。
でも、先輩が嫌悪感を抱いているのは、啓蒙や予防よりももっと厄介なもの。
目に見えない差別意識の事を指している。


病気に罹っている人は悪、知らずにうつされた人も、軽挙妄動の結果も、
真剣な恋愛の行き着く先も、自分を巻き込む目に見えない差別だとしたら?
癌で就職差別はされなくても、HIV感染ではされる。
何でも先進国のアメリカの実態がそうだから、日本もそうなるだろう。
遠からず、病に苦しむ人は「負け組」で罹らなかった人は、
ラッキーな「勝ち組」意識で過ごすような日本が来るだろう。


性教育を行わない日本。予防教育の前に必要なコミュニケーションを学ぶ時、
臭いものに蓋をして、未だに本音と建前を強調する人がいる。
交通ルールを学ばずに、道路の真ん中に子供を押し出すような危険な事を、
性に関して平気なのは、どういう神経だろうと思うのだが。
ボランティアの日、仕事の日、恋愛が祝福されたものではなく、
何かしらの運命の烙印を担ったかのように、
「モトカレ」「モトカノ」背後霊に付きまとわれるが如く、
生活の中に蔓延していく。


知識よりも先に、知らないものわからないものへの偏見や、
病に苦しむ人間への差別と自分自身の優越感が螺旋構造になって、
21世紀を金縛りにしなければいいのだが。
目に見えない差別、目に見えない負担。
そういうものを意識して、先輩はキャッチコピーに嫌悪感を示す。
私は思い出す。病院見学での新生児室の光景を。

ジーン・ワルツ

ジーン・ワルツ

医学のたまご (ミステリーYA!)

医学のたまご (ミステリーYA!)


講師は語る。「何が異常で、何が正常なのか」
生まれながらに病を持つ事が、障害を持って生まれてくる事が、
障害がわかれば、生まないように選択する事が。
親としてベストの選択なのか、子供にとってはどうなのか。
妊娠・出産以前に「モトカレ」「モトカノ」の痕跡を辿らなければならないのか。
それとも、不妊治療のように、人工的に安全な受胎を操作するのか。


ジーン・ワルツ』を読むのは結構ハードだった。
単なるお話として読むことができない。
実際に自分が不妊治療を受けなかったにしろ、二人目不妊は辛かった。
娘を一人っ子にするつもりはなかった。
丸高自然妊娠、超高齢出産、自然分娩は結果であって、
そんなラッキーがどれほど恵まれたものか、
確立で計算したら、眩暈がしそうだ。
そんな自分だから、周囲から色々風当たりも経験しているから、
単なる医学モノとして読むことができなかった『ジーン・ワルツ


診察・通院・医師や看護師とのやり取り、入院、説明、食事、
同室のママ仲間、出産にまつわる家族関係の生々しさ。
妊娠だけではなく、結婚よりも以前から、自分自身に根ざすもの、
そういうものを思い起こす時、遺伝子を受け継ぎ伝える神秘に、
人が関わる話のリアリティが胸にこたえる。


生まれてくる以前に十分ドラマがあって、危機的状況を潜り抜け、
奇蹟のように受精し、受胎し、地球の生命の歴史を一気に駆け抜けて
胎児から新生児、乳児、幼児と成長していく不思議。
それを自分の中に内包し、痛みや苦しさ辛さ、
けろりと忘れて何事も無かったように子供に愛情を注ぐ、
(もしくは注げず苦しむ、育児から逃げる)不思議。


不妊治療を行う。自然妊娠が異常をきたし、人工授精児たちが元気。
その対比は物語上の筋書きとはいえ、かなり残酷な展開。
私の世代はサリドマイド児の世代。否が応でも思い出す。
生まれる前から、代理母・高齢・望まぬ妊娠、ありとあらゆる問題。
そして生まれて後も、生まれる前からの因縁や因果律が人を動かす。
あちこちの書評は主人公の鋼のような強さと、
旧勢力・派閥をひっくり返す鮮やかな展開を褒め称えるが、
その小気味よさ以前に、赤ん坊の未来に、人生に、
気持ちが行ってしまうのは、私だけだろうか。


本の中の写真のように、ある時間で止められて生を終える細胞ではなく、
実際に生れ落ちてしまえば、母の体内に戻ることは出来ない。
それが何を意味しているのか。
どんな物語を産むのか。
生きていくことの切なさ素晴らしさは、
科学的な知識によって展開されるのではなく、
情緒的なものに育まれて、楔を打たれて紡がれ組み立てられる。


心待ちにしていた吉田秋生の『海街diary』ゲット。
本来なさぬ仲であるはずの異母姉妹たちのその後、
ラヴァーズ・キス』の登場人物たちのその後、
気になって仕方なかった。
10年以上も経ってから、『ラヴァーズ・キス』の世界に描かれた
凄まじい親子関係が、哀しいそれぞれの恋愛が、
鎌倉の町を舞台にさらりとした仕上がりで描かれる。


本来は辛くてたまらない事がぎっしりのはずなのに、
人から「かわいそう」という目で見られたくないと気持ちで繋がる
主人公たち。世間から見れば、せっかく生まれてきたのに、
子供には「かわいそう」な境遇、背景、過酷な人生経験。
それでも、毎日時間は過ぎていく。
日常生活が送られていく。


その何気ないしぐさや、日々の重なり、会話の中に
しっとりとした「家族」であること(もしくはかけ離れていること)
登場人物達の息遣いや、大粒の涙、声を殺した嗚咽が、
大酒かっくらって寝てしまう、たわいなく詮索してどぎまぎする、
気を回しすぎて、かえって気まずくなる。
そういう描写に、心癒される私。
辛いことがあっても、前向きになれるような気がする温かさ。
生れ落ちて生きていくことに、生きていかなくてはならないことに、
生まれてきた命に罪がない事を、切ない形で切り取る。


ジーン・ワルツ』の作者は男性。そのせいではないかもしれないけれど、
作品の中の母性は理性的で、理性を超えたものを突き放して、
観察する冷徹さに満ちている。描かれる母性は、客観的な母性のあらまほしき姿、
神話であって、筆者の理想を幾つかの形に投影しているのだろう。
ここで生れ落ちた「魔女(ウィッチ)」の双子の1人は、別の作品の主人公だ。
原因が結果を生み、連携するパターンが御好みの筆者の物語構成。
プロットの中で作られるキャラクターは『医学の卵』の薫君になるわけだが、
女性視点の生活よりも、男性視点でゲーム理論の第一人者のパパが影で見守り、
活躍するパターンは、変形屈折したヒーローものへの布石となる。
この作品の中では医学と医療のせめぎあいの中で牙を向く女性性が中心。
謎解きのピースのコマとして、母性が散りばめられる。


それに比べて『蝉時雨の頃』『真昼の月』に描かれる情景は、
女の目、母の目、女性的な視点が至る所にある。
女の醜さやどうしようもない所、タフな部分、少女としての柔らかな感性。
様々な母性が見え隠れするように、優しく物語を包む感触が感じられる。
それは『ラヴァーズ・キス』の世界の頃よりも、遥かに弾力のある柔らかさ、
しなやかさでもって、人と人との関係を緩やかに繋ぎとめている。
抜け落ちたパズルの欠片を拾うような展開ではなく、
連綿と続く祖母・母・娘の繋がりを「気付き」を通じて描く。
日常の中に透けて見える「受け継がれたもの」「受け継いで来たもの」
「受け継いで生きたいもの」が否応無くせめぎ合う事によって生まれる、
心と心の「触れ合い」の暖かさがある。


物語構成においては二つの作品は小説と漫画の違いはあれ、
最終的には作者の男性視点・女性視点の対比に尽きる。
秋の読書は、「読書用めがね」に支えられて、今のところ順調?
明日は、抜歯。失われていく自分の体の一部分の事が気掛かり。
ボランティアを終えて帰宅。灯火親しむ頃、隣は何する人ぞ?
私の思いは、いつも自分の体験に帰っていく。
感慨は、いつも自分の中に還って行く。
あれこれあれこれ、よしなしごと、繰り言、独り言。
言葉にならない思いに満ち溢れて。

海街diary(うみまちダイアリー)2 真昼の月(フラワーコミックス)

海街diary(うみまちダイアリー)2 真昼の月(フラワーコミックス)

海街diary 1 蝉時雨のやむ頃

海街diary 1 蝉時雨のやむ頃

すずちゃんの鎌倉さんぽ―海街diary (フラワーコミックススペシャル)

すずちゃんの鎌倉さんぽ―海街diary (フラワーコミックススペシャル)