Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

同窓会の余韻と『BIG FISH』

連休が明けた。同窓会・釣り・大学祭と出ずっぱりだったので、
少々お疲れ気味のまま、仕事場へ向かうと再び同窓会の話題。
先輩も中学の同窓会だったという。おまけに、会場のホテルでは
複数の同窓会の部屋があったとか。どうして?
何でも、年齢的にきりのいい数字の先輩、節目で同窓会。
その又上のきりのいい世代、つまり還暦世代も節目で同窓会。
小中高と、掛け持ちで同窓会があった人もいたらしい。
(実は職業上の大学の同窓会に近いものもあったが、欠席している私。)


この時期、あれもこれもと重ねて同窓会。
何だか食傷気味な思い出の世界が、見えないとぐろを巻いているよう。
こんなふうに感じること自体、マイナーね私って。
私の感じ方がこんなふうだから、出会った同級生のコメントも、
あれぇ?と思えるほど、マイナーなものがあったのか・・・。


そう、彼は恰幅のいい紳士。名のある病院のとある科を束ねる部長。
医師としてのキャリア、書いている論文も多い。
されど、彼の口から出てきた言葉は苦々しいものだった。
「今どきの研修医なんて、研修らしいことなんて何もしていない。
 研修というのは、2年間1年365日病院に泊り込んで、
 主治医として毎日患者の顔を見に行くのが当たり前だ。
 それを1日8時間労働で土日も休みたがるようでは・・・」
余程腹に据えかねていることがあるのだろう。
自分が歩んできた道を思い返してみるだに、割り切れないものが。


自分達の世代より楽をしているように見える若い世代の指導、統率。
立場上から下を束ねたりするのは、気分のいいものではない。
自分達だけが苦労を重ねているわけではないけれど・・・。
医療の現場に生きてきた彼からすれば、現在の研修医制度、
実際物理的な量や時間的な拘束が、過去の研修医より恵まれているのは事実。
何しろ滅私奉公の研修で、過労死が珍しくない業界。
そこで生き抜いてきた同窓生にしてみれば、
ちょっとした鬱憤を思わず口に出して述べたまでなのだろう。
でも、それを引き出してしまった聞き手の自分にも、ちょっと反省。
もう少し話題の流れが別の方向に行っても・・・。


思い出を、楽しいものだけに焦点を当てるのは難しい。
苦あれば楽ありだから山あり谷ありで、光と影は表裏一体、
分けて考えようとすること自体、無理がある。
しかし、人に語る際にどの部分にスポットライトを当てて語るか。
心に仕舞う時にどんな形に折り畳んで仕舞うかで、
形や皺が異なるように、思い出の側面も語り方、切り込み方で変化。

自己変容の炎―愛・癒し・覚醒 (ヒーリング・ライブラリー)

自己変容の炎―愛・癒し・覚醒 (ヒーリング・ライブラリー)

カモフラージュの本 (はじめての発見)

カモフラージュの本 (はじめての発見)

HIDDEN IN NATURE―100 Royalty Free Camouflage JPGS

HIDDEN IN NATURE―100 Royalty Free Camouflage JPGS

遅い夕食時のTV、BS放送
BIG FISH・・・ ビッグフィッシュ。大法螺吹きのことだそう。
この映画の主人公は、父と和解しようとしている息子なのか、
それとも危篤状態にある父、過去の冒険談の中にある父なのか。
昔封切り時、この映画を見た当初、奇妙な違和感だけが強く、
映画の魅力に引き込まれるよりも、
このファンタジーの展開に付いていけなかった。


しかし、様々な憂き目を経験した今となっては、
ストレートに一般的な形で事実を語るよりも、
自分なりに受け止めた心的事実を述べ伝えたり、
多少の脚色、カモフラージュをした方が無難であったり、
自分自身を守ることができたりするのを意識せざるを得ない。


何でも最近の誤診、統合失調症の性急な診断と投薬の被害は、
様々なショックを受けた人間の精神的な急性期の症状、
白昼夢・忘却・妄想・離人症状・幻聴・不安、
そういったものを慢性的な日常の症状と誤解してしまった結果だとか。
下手すると映画の世界の法螺話も誇大妄想凶のたわ言で、危険印?


とにかく『ビッグ・フィッシュ』の奇妙なストーリー展開と、
不思議な映像美のせいで、ちょっとしたトリップ気分になることは確か。
挟み込まれたエピソードの数々が、恋の成就や戦争体験、
結婚・出産・誕生・出会い・別れ・死、様々なライフイベントと、
仕事にまつわる苦労話の断片だったとしても、
身も蓋もない現実の羅列で記憶され仕舞いこまれるよりも、
面白可笑しい話の披露として表現される方が、
危機回避としては好ましいものかもしれない。
人によりけり、だが。


生々しい家族の話、父と息子の葛藤と和解の姿よりも、
死の淵へと向かう父親の若い頃の思い出に寄り添う形で、
息子が父の人生を再体験し、再構成する。
父が一生を振り返り、死を迎える旅路の杖として存在する、
そういう話の方が面白いのだと気づくのに、随分時間がかかった。


乾いていく体と心。潤いを求めて、広い世界に解放されることを願って、
穏やかな死を迎える心の準備として、
多くの人々との分かれの形として、追体験・再体験。
人から聞かされる話、昔話、言い古された話、伝説、説話。
その中に自分の人生を見出し、祖先の姿を垣間見、
来し方行く末を見つめて、その過去と未来を俯瞰する。
その人生の知恵ともいうべき作業を失ってしまった現代人。
そんな我々に対する皮肉な警告を、鋭い舌鋒で責め述べることなく、
一匹の魚の物語、ファンタジーの体裁で描こうとした作品。


鬼才ティム・バートンの面目躍如たる作品なのだが、
発表当時の違和感が大きかったのは、自分自身の死に対する違和感、
嫌悪感のせいだったのかも知れないと、今更のように思う。
もしくは、父と息子の関係というものは、自分の理解の外にある。
そういう感覚が強かったせいかもしれない。
サーカスのエピソードも、どちらかというと苦手な分野で、
私にとっては『ダレン・シャン』を連想させたり、
虐げられた暗いイメージに繋がり易い。
予告編で印象的だった、一面の黄色い水仙
一途な恋心、執着、極端とも思える行動力。
そういうものに近寄りたくないという内心の反動・反感が
最初映画を見た時の感動よりも、違和感となって残り続けたのかも。


ともかく、思い出をどのように心の中に仕舞いこみ、虫干しするか。
・・・それはとても難しい。
この年まで来れば、虫食いが見つかっても可笑しくない。
それでも、死んでいるものを扱うよりは、生きているもの相手にしていたい。
ならば、ストレートではなく味付けをして受け入れやすく、
見せ易く、見栄えよく、羽織り易く、空気に晒して。
要は持ちのいい思い出にしておくためには、テクニックが必要。


それほどに心と心を通じさせることは難しく、
親子だからといって、何の努力もなしにわかり合えることはありえない。
夫婦だからといって、何の秘密もなしに一生を終わるわけではない。
けれども、今生きている瞬間、誰の目の前に存在し、
どんな言葉で語り掛けたいか。


自分の物語を紡ぐ時に、そのナラティブが、
人生をカモフラージュする、思い出に霧を被せ、
上澄みを掬い取るような物語に仕立て上げるのならば、
それはその必要性があるからだろう。
それを、誰も止める権利はないし、止める必要もない。


同窓会の余韻が心の中で残響。
そんな時、『ビッグ・フィッシュ』はしみじみと考えさせる。
あれこれ忘れていたものを思い出させ、感じさせてくれる。
意図して隠したのではない、カモフラージュしたのではない、
天然呆けの部分を別として、自分の内面をどのように扱えばいいか。
ティム・バートンの映画は「自分と○○との関係」に悩む主人公が多い。
人にとって自分自身をどのように受け入れていくか、
それは大きな課題。直視するのは難しいから。
まして、死の床にあって自分自身を振り返る時であれば、
尚更のこと。


息子が語る父親の死の場面、実際の葬儀の場面。
二重に映し出される葬送の場面。
あの美しい哀しい別れの心の触れ合いの場面。
奇妙で不可思議なファンタジーの顛末と終焉が、
現実の死に縫い閉じられていくような感覚。


劇場で見た時とは異なる印象で、BS放送で観た、BIG FISH。
次に観る時は、また違った思いを抱くのかもしれない。
それにしても、ティム・バートンの映画はいつも切ない。
奇妙な明るさを伴っていても、どこか暗く切ない。
思い出をカモフラージュしなければ生きていけない、
人間の心模様の切なさに溢れている。

ビッグフィッシュ―父と息子のものがたり

ビッグフィッシュ―父と息子のものがたり