Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

中之島祭

実は当初の予定、もっとのんびり垂水神社、天空人まつりで過ごす予定だった。
ランチタイムも兼ねて、ゆっくりと。
ところが昨夜、家人は駅で別のポスターを見つけてしまった。
中之島祭」・・・勿論吹田市内、万博公園の側には大学病院がある。
まさかそこで行われている学園祭・大学祭の名前が「中之島祭」だとは・・・
今の今まで全く知らなかった。


かつて、その医学部と病院が中之島にあったのは遥か遥か昔のこと。
そして、何故、私が中之島に行かなかったか、
記憶の底に封じ込めてしまっていたか。
その時の思い出話はこちら。http://d.hatena.ne.jp/neimu/20061103
尊敬する手塚治虫と、青春のほろ苦い思い出。
それから四半世紀以上、中之島に葦を運ぶことさえできなかった私。


昔と今ではかなり雰囲気が変わっているだろう。
場所も学生気質も、大学祭(医学部祭)そのものの在り方も。
どうしても昔の思い出と比較してしまうだろうから、
少々気が進まなかったのが、家人の興味関心はその「余興の催し」にあった。
アカデミックな雰囲気からは遥かにかけ離れた、お笑いのステージに。


垂水神社から車で30分も掛からない。初めて来る場所。
出来れば、お世話になりたくない病院。
しかし、娘を取り上げてくれた産科医は、・・・もしかしたら、
まだここにいるかもしれない。
ちらりと、1年近くお世話になった先生の顔を思い浮かべる。


広い学内、恵まれた環境、12月並の寒さので一気に進んだ紅葉。
少ないながらも学生達が賑やかに集う模擬店。
学生人数の割に不釣合いなほどの大きなステージ。
そう、ただでさえ底冷えがするほど寒い今日、人の少ない学内、
人に訊かなければどこで中之島祭をしているのかわからない程、広い学内。

よみがえる適塾―適塾記念会50年のあゆみ

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堂島川に沿う在りし日の中之島遊歩道

堂島川に沿う在りし日の中之島遊歩道

僅か一日のお祭騒ぎの為に用意された講義棟での催し。
それなりに力を入れているのだろうが、・・・残念ながら
国立大での催しとはこの程度のものかという貧相さ。
というか、期待しすぎているのかもしれない、過剰に。
思い入れ激しく、昔以上の何かを見出したくて。


いく人数が少ないからといって、・・・と感じてしまうのは、
厳しい採点? それは昔と同様、実際の臓器展示や
手技・手術に関する説明等が少ないからばかりではない。
興味・関心・学生・地域に関してどれだけ開かれているか。
そういう観点から見ても、貧相だと思わざるを得なかったから。
マンモス校の自分の母校と比べていうのではない。

 

実家近所の医学部の学祭も、本学から離れ医学部だけ独立キャンパス、
少ない人数の中、2日間に渡って、それも一般向けの医療関係の講義、
模擬店・バザー、子供向けの催し、文科系クラブの展示、ステージと、
それなりに努力しているなあという2日間の内容。
内視鏡訓練・電気メス体験・手術ビデオ・臓器展示、薬膳カフェ、
健康チェック等も含め、目で見る部分、講義で医療に触れる部分、
参加できる部分、息抜きできる部分、それなりに工夫されていた。


スタンプラリー、お化け屋敷、模擬授業、各種展示、
それなりに頑張っていたのかもしれないけれど、
僅か1日だけの為にとても頑張っていたのかもしれないけれど、
この程度の展示で中之島祭なのかと思ってしまう、自分は何者?
やっぱり昔の思い出にすがっている?
どこの大学でもお笑いタレントを呼んでいる。珍しくはない。
家人はそれが目当てで来たのだから。
お笑いで、免疫値が上がるのならばそれに越したことはない。
でも、・・・。これが中之島祭なのかと思うと空しい。

四半世紀以上も前の、手塚治虫の講演を聞いた頃の姿は、
自分の思い出の中にある。生々しい臓器の展示も、
学生だった後輩の姿も、私も。
目指した大学は同じだったのに、そうはならなかった苦い思い出。
側にいて欲しいと願ったのに、そうはならなかった人生。
様々なものが噴き出すから?
いずれにせよ、期待外れだったことは否めない。
自分の追憶の中の世界と比較してしまうから。


むろん、それなりに楽しみはした。お化け屋敷も、感染症クイズも、
アルコール検査ではやっぱり飲める体質だとわかり、
肺活量はそこそこ普通で、動脈硬化に関しては年齢よりも進んでいて、
解像度の低い画面のみならず、右も左も駆使する内視鏡操作は大変。
腸を手繰り寄せる練習なんかも・・・。
何故か部屋の飾り付けに「すだちくん」があちこちに。
徳島出身の医学部生がいるに違いないと見た。
そんな事もささやかな楽しみではあったけれど、何かが違う。

 

 

もっと早く来て、公開授業「医療従事者側と患者側の共存に必要な歩み寄り」という、
お題目のお話を聞けば印象が変わったのかしら?
それとも、国境なき医師団による講演を聴けば?
追憶に惑わされることなく、今現在の等身大の私が、
現実認識してちゃんと、現状把握できた?
国立大学、いや、今の国立大学はこの程度なのなどと思わずに?
有名予備校が進学相談会の会場を開いていることが、利点?
英語での発表があるところがアカデミック?
記念誌に、もはや「生理的嫌悪感を催す知事」の言葉が寄せられていることが不愉快?


ちなみに、今年の中之島祭のテーマは「響」
巻頭に今をときめく哲学者、大学総長 鷲田清一の挨拶文。
最後の部分を抜粋紹介。


−−さて、今年のテーマは「響」です。「学生個々の社会性を養うとともに、閉鎖的と思われがちな医学部という学部を身近に感じていただく」というのが、その心のようです。
 「響き」は、向こう、つまりは自分以外のものからやってくるものです。そして向こうからやってくるものがみずからの内で響くには、それを受け止め、共振する心がなければなりません。そう、他なるものにたっぷりと開かれた感受性です。
 苦しむひとの声、それにどこまで耳を澄ませられるか。これが医療の原点にあるべき感受性、医療に携わるものがぜったいに手放してはいけないセンシビリティであると思います。
 繊細な感受性を持ち(sensitive)、ときには他者の疼きに身もだえしながらも(sensuous)、しかし冷静で確かな判断力を持つ(sensible)。そんなsensibilityを持つ医療者に、みなさんはなってもらいたいと願っています。中之島祭がそういう資質を身につけるよい機会となることを期待しています。−− 


だそうだ。それがどこまで達成されているかはともかく。
私自身の狭量さは、冷静で確かな判断力からは程遠いみたい。
ただ、わかること。お笑いを見て笑っている家人が元気でいることが、
家族にとっての幸せ。これが今の私の現実の拠り所の一つ。
私の心の中の中之島祭が、消え去って行こうとも。

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