Festina Lente2

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マディソン郡の橋

クリント・イーストウッドは既におじいさんと言ってもいい。
この映画の時点でも、だ。
ミリオンダラー・ベイビー』の時も驚いたが、
改めて10年以上も前のこの映画を見ると、この時でも十分におじいさん。
娘にも指摘された。「この二人、50と60じゃん。」
(え?50は言いすぎでしょう)「こんなおじいさんと浮気するの?」
ああ、風呂上りの娘、かーちゃんが食い入るように見つめているBSの洋画に、
身も蓋もない言葉を。茹で上がったばら色の頬で、冷たい言葉を。


「あのねー、お母さんがもし50歳だったとしたら、恋をしないと思う?」
娘、噴き出してのけぞりながら、手だけNO!と振っていた。
いいさ、いいさ。その年齢になってみないとわからないことだから。
昔むかし、私が子どもだった頃、大人が恋愛するなんて、変な感じ。
恋愛したからこそ「大人」に、恋愛後「大人」になるのであって、
大人になった後は、「恋愛」はないと思っていた。
そういう人は幼いか、若さが残っているといえばいいのか、
大人として出来上がっていないから、落ち着かないのだと思っていた。
いやあ、若いって残酷でかわいい発想しかできないものです。(笑)


自分が順調にというか、人類の歴史に逆らうことなく
タイムカプセルに詰められることなく、時間の法則に従って年を取る。
物理的法則にしたがって年を取る。でも、心が同じ速度で老いて行くとは限らない。
オジサンオバサンになってもそう感じるのだから、きっとこの先、
おじいさんおばあさんになっても、同じことなのだと思う。
『老いらくの恋』というものではなく、それは当たり前に日常生活の延長線上に、
今までとは違う「時めき」、人生を変える「ひと時」、
本来の自分を見出す「瞬間」であったりするわけで・・・。

マディソン郡の橋 (文春文庫)

マディソン郡の橋 (文春文庫)

マディソン郡の橋 [英語版ルビ訳付] 講談社ルビー・ブックス

マディソン郡の橋 [英語版ルビ訳付] 講談社ルビー・ブックス



マディソン郡の橋』はアメリカ的な映画というよりも、
日本的というか、東洋的な感じがする。個人的感慨だけれど。
それこそ、中川与一の『天の夕顔』に通じるようなもの。
色合いも雰囲気も異なるけれど、出逢った後、死んでから後しか結ばれない。
魂の次元での出会いは、現世では報われない。
心の中から永遠に消えることのない、たった4日間の真実の恋。
一生を支配することになる恋。


子供を家庭を捨てることができなかったフランチェスカ
その思いを、思いのたけを3冊のノートにしたため、
死後の「身の振り方」を遺言を残すフランチェスカ
子供達への思いを、家族への思いを、そして彼への思いを
全ての過去を封じ込めていた鍵付きのチェスト。
小さなエピソードと共に、散りばめられる過去と現在。


映画の中で語られるナレーションの囁くような声が好きだ。
人生を振り返り、自分自身に語りかけ、なおかつ、
愛しい人を思い出し、愛しい人々に言い残す言葉を紡ぐ、
その声が好きだ。
エンドクレジット。屋根の付いた橋の周辺を蛇行して流れる川。
そう、川の流れが屋根付きの端を抱くように見える、
その景色と共に、思い出もまた時間の彼方に流れていく。
人生の山あり谷ありの流れを連想させる終わり方。


何度見ても新しい思いに浸ることができる映画。
娘や息子の立場から、主人公の立場から、男性・女性の立場から。
農場の主婦ではなくても、結婚して子供を持てばその世界で生きていく。
その立場で生きていく。でも、それは納得済みのように見えて、そうではない。
心の中では別の自分がいるのに、気付いてもらえない。
自分の一番自分らしい部分を封じ込めて、その土地・習俗・時代に合わせて
生きていくことの詰まらなさ、平凡さ、やるせなさ。


贅沢を言えば切りがないけれど、子供の母として、働く夫を持って、
何が不満だと言われれば、人の道に反するのかもしれないけれど、
心の中には誰もが持っている、生きることへの欲望、渇望、
今の自分とは異なるもう自分を、せめて今までの自分ができなかった事を
為しうることができるのであれば、叶えさせてやりたい。
そんな熱に浮かされたような情熱を持て余している事を、
最も側にいる人が気付かずに生きている。
そのことへの苛立ち。


農場でなくても、毎日の仕事場でも、同じことが言える。
ここで、このまま一生、この仕事をしながら、年老いて、
納得の行く給料ではないけれど、人並みの生活を言われればまあまあの、
けれども、それで満足しているわけではない。
自分に手綱を掛けて、どうどうと宥めながら、何とか生きてきた。
自分の狭量さなのか、周囲への反感・反発なのか、
成熟の対極に未熟があると思っていたのに、
成熟したと思っていた分別の向こう側に、幾つもの種が落ちていて、
今か今かと芽生える時を窺っている。


隙あらば、天高く伸びていこうとする草花の勢いにも似て、
心の中に嵐吹き荒れ、稲妻煌めく瞬間を待ちわびる思いが満ちる。
いま少し、鏡を見ておしゃれをし、
自分が「生身の人間」である事を確認する。
自分がそういう「女性」であった事を。
自分が自分であった事を。
役割や立場に縛られない、心向くまま気のむくままの装いを楽しみ、
会話を、音楽を、ダンスを、散歩を楽しむことのできる人間、
望めば別の生き方ができる人間である事を、意識する・・・。


でも、望めばできる事をしないという選択をすることもできる。
愛情、短い時間の中で育まれる密度の高いむつまじい時間。
そういうものを信じない人にとっては、わからないだろう。
その時間の素晴らしさ。その関係の深さ。その心の結びつき。
だからこそ、離れて生きる事を選ばなければならなかった残酷さ。


様々な思いを抱かせる、この映画が好きだ。
雨に濡れてずぶぬれのクリント。イーストウッドの姿に胸が痛む。
そして、愛する人の名前を刻んだ十字架をミラーに掲げてゆっくりと去っていく。
2度と会えぬ。人生の十字路が交わることがない。雨の中に消えていく。
全てが、全てが。
・・・。


久しぶりに見た。実はこのビデオを持っているのだが、
こんなふうにBS洋画劇場でもなければ、夜の休憩時がなければ、
見る機会がないだろう、見直すことがないだろう映画。
だから、食後ぼーっとTVに子守してもらっている私。
思い出に浸るため。追憶を辿るため。

マディソン郡の橋 [DVD]

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マディソン郡の橋/(2)

マディソン郡の橋/(2)