Festina Lente2

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『ブタがいた教室』


娘を駅に迎えに行く。今日一日は演奏会の合同レッスンの為、離れ離れ。
家人が娘に見せたい映画があるという。私も賛成した。
このところ週末映画三昧だが、食事と休憩を兼ねて待ち合わせると、
こうなる。別々に暮らしているからこその、週末の贅沢。
何の映画を見せるか内緒にしていたので、娘は訝っていた。
本日予定していなかったはずだと。
田畑智子は出演しているが、それほど出てくるわけではない。
この映画の主人公は何といっても小学6年生の子供達。
6年2組の生徒と一匹のブタ、そして担任の先生。


この教育的な実践が実話だということを、娘は知らない。
魚でもなく鶏でもなく、ブタを使ったということは当時も今も、
「いのちの教育」の授業としては画期的な内容と実践。
当時の飼育は映画と異なり3年間に及び、担任の先生は小学校を離れ、
現在は大学の准教授だ。ある意味燃え尽きたのだろう。
この映画の原作となった小学校はかなり田舎の学校だったから、
ブタの飼育は可能だったような気もしている。
無差別殺人のあった附属池田小に勤務して、その後、大学へ。
当時の子供達を追ったドキュメンタリー、インタビューを
どこかで見たような記憶が微かにある。

昼から見た『ブロードウェイ・ブロードウェイ』は、閑古鳥にびっくり。
いい夫婦の日なので、家人と二人きりで見る映画に選んだのだが、
(さすがに『ブラインドネス』は気が滅入りそうなので、やめた)
邦画が元気な今年といわれているが、教育映画は受けないと思っていたのに、
座席は結構埋まっていて、驚かされた。
親子連れもカップルも、結構年配の方々も。
どんな気持ちでこの映画を連休初日の土曜日に?
私自身は家人が言い出すまで、特に娘に見せようとは思っていなかった。
教育的な内容というものは、少々苦手で・・・。
(結論としては見てよかったとは思ったものの)


でも、空の色や草木が殆ど代わり映えのない冬色で、
1年間を写した設定でも、あまり成長の跡が見られない子供達。
(外見上の変化がわからないほど、短期間の撮影だったはず)
6年生の設定の割に幼い表情、幼稚な色彩と下手な教室の絵。
ステレオタイプモンスターペアレンツのPTA、
結末が見えているのに、どうしてみんなこの映画を?

豚のPちゃんと32人の小学生―命の授業900日

豚のPちゃんと32人の小学生―命の授業900日


生徒役の子供達は様々な表情を見せた。演技らしい演技以前に、
子供達はそれぞれの役割に合わせて、意見を述べた。
小ブタに名前を付けた生徒達に戸惑いながら、学級経営をする新任教師。
けれど、生徒達がブタ小屋を一日で作ったり、
最初作ったブ小屋がいつの間にか、別の綺麗なブタ小屋になっていたり、
気になるところは沢山あれど、子供達はブタと格闘していた。


臭い事も、手間が掛かる事も、掃除や世話も大変な事も、
2ヶ月足らずのロケだから可能だったと思えてしまう。
その間に確かに子供達は変化しただろう、蛹から蝶の様に。
演技だと編集だとわかっていても、涙を流しながらクラス会をし、
それぞれに意見を述べ合い、悩み傷ついている。
自分が育て、手をかけたものが失われる辛さ、
単なる動物ではなくて、ペットとして愛情を注いだものが、
自分の家族同様になっていることが。
食べるためのブタではなくて、特別なブタになっていることが、
ありありと伝わってきた。


子供達は様々な口調で、表情で、自分の意見を言う。
それが、本当に自分の心からの言葉だったら。
与えられた台詞ではなくて、心からの言葉だったら。
大人の思惑の「命の教育」の見通しや予定や遥かに越えた、
自分の心からの言葉を自分で言う子供達が増えて行けば、
世界が変わる。そんな気持ちにちらりとさせてくれる。
錯覚なのだと心のどこかで、意地悪な私が囁いている。


子供が出てくる映画なのに子供を信じられない。
動物が出てくる映画なのに泣けない。
子供と動物に結局ほだされる、だまされるようなこの苛立ち。
素直に受け止めたいと感じながらも、どこかで違和感。
この不協和音を感じるのは、ひねくれた大人の感性?
はじける子供達の四季を演出する映像の中に、
TVドラマスペシャルを見ているような感覚。


2時間番のTVドラマが、教育的配慮の元に、
大人の立場と判断が「食肉センター」の結末を選んで、
子供達がPちゃんと称されたブタを見送る。
現実の教育実践ではもっと様々なことがあっただろう。
でも、2時間の映画ではそれが薄っぺらな組み立てでしか伝わってこない。
ドキュメンタリー映画の後では、どうしてもその差が際立って仕方ない。


私の心の中に蘇ってくるのは、小学校のフナの解剖の理科の授業。
クラスの中でも乱暴で苦手な体育会系の男の子が、
先生の解剖するフナを見て嘔吐した記憶が蘇った。
埋め立てが始まったとはいえ、浜辺の漁師町の小学校。
地元の男の子が、釣りなど日常茶飯事のはずの男の子の、
魚1匹の解剖に対する過剰な反応に驚かされると同時に、
冷たく軽蔑したことを思い出した。


魚なんか日常茶飯事に料理している。手が臭くなっても鱗を落とし、洗い、
ハラワタを抜き、骨を砕き、下ろし、捌いて、食べられる状態にする。
下味をつけ、焼くなり煮るなり揚げるなり、お好みのまま。
スーパーマーケットがまだ珍しく、肉屋魚屋と一軒一軒廻って買い物した頃。
肉屋には肉がぶら下がり、魚屋には魚が目をむき、
生臭い血の匂いがするのが、食べ物を扱う店の当たり前の時代。


そこから遠く離れた今、この映画の原作の取り組みがあり、
教育の中で「命の大切さ」「命を受け継ぐということ」を教えようとする。
しかし、それは学校の中で教えるより以前の問題があるのでは。
学校が体当たりに挑むのではなく、本来家庭で行う部分が先にあり、
そして学校での教育の薫陶が、体験を通して人を成長させるのだろう。
なのに、まず学校の取り組みありき、子供の成長ありきなのか。


ちなみに家人は生徒の父親、琉球料理店の親父の台詞が好きだそう。
娘は学校の先生だったらこの映画を生徒に見せたいそう。
そして、みんなにpちゃんのことを考えてもらいたいのだそうだ。
ちなみに君はどう意見を述べるのか? と尋ねると、
「pちゃんを食べない、引き継いでもらう」派だそう。
かーちゃんは、むろん「食べる」派だ。


かつて、解剖に使われた魚は捨てられてしまった。
そのことがずっと嫌だった。今も昔も。
解剖に使われた魚は、いつもと同じように捌かれたのに、
食べ物としては扱われず、廃棄物扱いだった。
同じ魚でも・・・。
だから、ブタが食べられることに納得できるかどうか、
正しい間違っているはないとしても、
実践の最後をセンチメンタルに描いたラストは嫌。
子供に見せる映画の限界?


一人一人の言葉から生まれて来ているものが確かにあると感じるのに、
それを素直に認めることができない、
このもどかしさを何としょう?

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