Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

仏像と対峙して

土曜日の朝、朝食をとっていると娘が唐突に言う。
「よかったねー、今日が金曜日じゃなくて」「ん?」
話が見えない。
「今日が土曜日でよかったね。金曜日だったら、13日の金曜日だよ」
なるほど、そういうことか。
気分で言うなら、毎日が13日の金曜日的に荒れているのだが、
娘のかわいい発言に、少しばかり心が和む。


私が美術館博物館めぐりをするので、娘も健気に音声ガイドを付けて、
あちこち見て歩く。娘なりに興味惹かれる面白さのツボがあるようだ。
今回の三井寺展で面白かったのは、智証大師円珍の坐像だという。
まあ、桃の種のように尖った頭、ふっくら落っこちそうな頬、
僧侶の坐像、御骨を蔵(かく)し持つ秘仏にしては、かわいらしくはある。
憤怒の形相をたたえた不動も、不気味なほど手を持つ千手観音も、
半跏思惟・直立不動・合掌、様々なポーズの仏像の眼差しに晒されて、
心のもやもやが増幅されて、吐き出したくなるのも一興か。


目を瞠(みは)り、歯を剥き出して、怒りに燃えているような不動明王の表情も、
仏の教えを守らんが為の必死の形相だと言われれば、そうとも取れる。
心にやましいことあれば、責め苛まれているような気持ちにもなる。
穏やかな吉祥天女に母性を見出す気持ちにもなれば、
自らの夜叉を深く意識させられることもある。
対峙すれば、映すもの映されるもの、呼ぶもの呼び覚まされるもの、
様々なものが心中を去来し、疾風怒濤の如く荒れ狂う感もあれば、
鏡面の如き水面に、微かな漣の余韻を感じることもある。


向かい合う時間を、日常から隔絶された時間を持つということは、
自らの心の裡(うち)にある裂け目を無理やり閉じるのではなく、
血膿の中に浸る如く、傷を舐める時間でもある。
静かに立っているから静かな心持で生きているわけではなく、
笑って過ごしているから、深い悲しみと無縁ではない。

仏像の本

仏像の本

ほたるの本 ふるさとの仏像をみる

ほたるの本 ふるさとの仏像をみる


何も言わなければ何も言わなかったことと同じと、
はなから信じているような人と過ごすのは辛い。
何も言わないからこそ、より多くの事を積もり積もらせているのだと、
感じ取れない人と過ごすのは辛い。
ただ、お互いが不完全だから赦しあうのではあるが、
お互いが背負いきれない一線を超える時、その度合いは何か。
人それぞれ異なるから、厄介極まりない。


如来も菩薩も明王も天部、その他あまたの諸尊たちも、
何故それほどまでに必要だったのか。
それほど人の心は脆くて、様々な段階・形・考えがないと網羅しきれない。
唯一という絶対的な存在では、人は近付くこと叶わず、
自分に信じやすい、自分が納得しやすい在り方から近付いていくしかない、
学んでいくしかないという、その具象性のために、
仏教は多くの眷属を必要としたのではないか。
具体的に目に見える形を必要としたのではないか。
守るものあれば攻めるものあり、戦うものあれば祈るものあり。
変化自在な心の在りように対処すべく、様々な具象を用いて、
人の心に近付こうとしたのではないのか。


文京のエピソードの中で個人的に好きなのは、
訶梨帝母(かりていも)(鬼子母神)とその娘の吉祥天。
ちなみに源氏物語で最も好きなのは六条御息所だ。
女性であると同時に母でもある、その六条御息所を思う時、
彼女は何に祈っていただろうと想像する。


調伏されても調伏されても、妄執として蘇る。
母として生きることはできても、女として成仏することはできない、
その情念の凄まじさ、エネルギーに憧れることはあっても、
深く嫌悪することはできない。
その満たされない心のうちを思うとき、源氏物語宇治十帖に描かれた様に、
出家により女が救われ、自由になり、生きる道が見出せるというのなら、
在野にあって出家せずに生きることは、何だと言うのだろう。
何の意味を持つというのだろうか。


知識として目の前にあっても、信じることは違う。
信心することとは異なる。
宗教としての尊厳を思いやることはできても、
宗教という麻薬にも似た安寧、悟りにも似た麻痺を受け入れることはできない。
ただただ、自分が愚かしい人間である事を嘆きながら、
嗤(わら)って生きていくしかないのだと、
確認するために仏像に対峙する。
そんな今日。

にっぽん 心の仏像100選〈上〉やすらぎの仏

にっぽん 心の仏像100選〈上〉やすらぎの仏

にっぽん 心の仏像100選〈下〉ぬくもりの仏

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