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ハイジだけがハイ?

仕事を終え夕食を食べる頃、ゴールデンタイム、BSの映画が始まる。
『ハイジ』昨日のピノキオが男の子主人公なら、本日は女の子主人公。
おじさんが演技したピノキオに対し、本物の少女が登場。
アルプスの少女ハイジ』と言えば、日本人はアニメのお陰で知名度抜群。
当時既に、アニメを全編見るような年頃ではなかったから、
あの有名なアニメソングは知っているものの、作品そのものは殆ど見ていない。


よって大学時代、生まれて初めての海外旅行でチューリヒ滞在時、
わざわざマイエンフェルトとラガツに出向いて、『ハイジ』の世界を
体感しに行った当時、3月と言うのにまだまだ雪深きかの地の、
澄み切った空気、どこまでも眩しいほど晴れ渡った空、
さくさくと雪を踏みながら登った山道、
何故か何処からかともなく現れたでっかいワンちゃん。
ハイジの泉という彫刻の置かれた場所。
30年近い昔の記憶が蘇ってくるのだが、何故か映画の景色とは重ならない。


そう、映画の中で主人公のかわいらしい笑顔よりも、
絵葉書のように美しいスイスアルプスの山々よりも、
「明るさ」よりも「暗さ」の方が印象に残った映画だった。
『ハイジ』のストーリーを半ばはしょって強引にまとめて、
2時間弱にまとめているせいもあるが、物語性よりも
ワンショット、切り取られる画面、場面のあちこちに、
それこそ『陰影礼賛』とでも言うべき闇を見出した。


主人公の髪の色、瞳の色、薄暗い山小屋、闇を強調する炎、
フランクフルトのお屋敷の荘厳な装飾、室内の暗さ、
ロッテンマイヤーの不気味で偏執的な佇まいと暗さ、
医師とクララの父親が語る場面、夢遊病のシーン。
どれをとっても暗い場面ほど「鮮やかに生々しく暗く」
描かれているのが新鮮だった、と言えばおかしいだろうか。

ハイジ [DVD]

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アルプスの少女ハイジ (角川文庫)

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アニメの色調はべたっとしていて、暗さを排除して、
平明な2次元から子供へメッセージを送るため、
複雑で3次元的な陰影に富んだ起伏を持たない。
その差が、今回この映画を見たせいなのか、
映画の手法そのものが、時代背景に忠実で、
電気の無いランプの光で生活していた当時を再現しているせいか、
『陰影礼賛』的な闇を帯びて、色調にいたく心を惹かれた次第。


そのせいか、ピノキオ同様映画の見方も変わってしまった。
というか、何故、母親のいないピノキオ、妻のいない父の親方。
何故母親どころか両親のいないハイジ、父はいても母のいないクララ。
昔話でも誰かが何かが「欠けている」ことが物語を展開する鍵、
目立たない背景として存在する場合が多いが、
(子供に恵まれないおじいさんおばあさん、
 普通の状態で授からない子供、一寸法師かぐや姫


「欠損」「普通で無い」「(一般的に)マイナスの状態」であることが、
常に物語に読者を惹きつける。関心を抱かせる。
安定して、満ち足りた状態からは何も生まれてこないように、
欠けている事、不安定である事が、次のステップへのきっかけになる。
変化を促すのは現状維持が必要な安定性からではなく、
不安定で危うい状態、普通ではない状態だという定石を、
何と生々しい暗さの中で演出しているのだろうと意識させられた。


『母の無い子と子の無い母と』そういう題名もあったな・・・。
聖書ではないけれど、「求めよ、さらば与えられん」というのは、
「知足」ではなく、現状では満足できない状態、
何か余分な物を欲しているという欲深い状態ではなく、
切実に求めることが無ければ、決して手の届かない、
受身で与えられることなどありえない状態を意味する。


切望する。心の奥深くから切に望む。無意識のうちにも、
寝ても醒めても忘れられないほど深く強く望む。
何故なら、世間一般的な普通では無いから。
今の状態では欠けているから、足りないから、満足できないから。
揺れてぐらついて不安定であればあるほど、
穴があき、亀裂が走り、ひびが入り、どうしようもなく壊れていればいるほど、
元に戻りたい、直りたい、傷を治したい、癒したい、
元通りとまでは行かなくても、納得できる埋め合わせが欲しくてたまらない。


そういう隠れた情念のようなものを、画面のほの暗い影に、
瞳、髪、影、闇に感じてしまったと言えばいい過ぎだろうか。
とにかく、明るいアニメの印象で誤魔化されてしまっているかもしれないが、
家族を失い、戦争の傷跡を背負い、人殺しの噂まで尾ひれが付いて
周囲から恐れられている、ハイジのおじいさん。その殺伐とした生活。
ハイジに優しいペーターのおばあさんは、盲(めしい)で、
両の目からその光は失われている。心を照らす髪の御光に相当する、
聖書の言葉、成句を自分で読む事も出来ない。
孫のペーターは勉強嫌いで文盲で、本を読むことができない。
ある意味、闇の中に置かれている。


車椅子で生活、母を失い、仕事で殆ど家にいない父親。
暗い家の中、意地悪なロッテンマイヤー
ハイジも両親を失い、育ての親の叔母はハイジが足手まとい。
そういう環境で、なぜハイジが純真で健康なのか、
クララも病にめげず、健気で優しい美少女なのか、全く理解できない。
子供たちがいじけずに存在しているという設定が、奇異であり、
唯一ペーターが、友達を取られた嫉妬と腹いせに、
車椅子を崖から落とすシーンの方が理解し易い。


こうやって見ると、簡単なレポートが書けるくらい『ハイジ』は面白い。
象徴が好きな心理学から見るといっそう面白い。
トリックスターは誰なのか。欠損家庭(これは差別的表現ではなくて)
とでも言うべきハイジやクララの家庭に、
母親らしい理解や配慮、慈愛を注いで言葉を掛けて、
子供たちを見守っているのは、誰なのか。
洗練された地母神のような「おばあ様」の存在感の大きさは、
闇の中に埋もれていて、たまの要にしか出てこない。
最も女性の姿は、ペーターの母親、祖母、ハイジの叔母、
そして大自然と様々なところに分散、投影されているのだが。


母の乳房の記憶はなくても、ヤギのミルクとチーズで育つハイジ。
壮大なアルプスの山々の自然から、形而上学的な存在を肌で感じ、
風も緑も澄んだ水も、心の糧として育つハイジ。
人の世で疲れ荒んだ祖父の心を、クララの寂しさを、
ドクターの哀しみを、各人に応じて癒す存在である「ハイジ」。
ハイジは人の心の辛い部分に寄り添う存在であるが故に、
明るいと同時に限りなく暗い。


その証拠に、本当に美味しい水を求めてフランクフルトの街中を彷徨い
遠い井戸まで水を汲みに行くのであり、
その行為は、その後展開においても象徴的だ。
また、自分の意思とは関わらぬ部分で動き回るという夢遊病になり、
誰よりもストレートに心の欲求を体に伝えるが故に、病になる。
そして、闇を抱えて生きる人が自らの闇を内包するのに対し、
外に向かってねじれて放射するのを楽しむような、
ロッテンマイヤーだけは癒されることは無い。


物語の中で対極として存在するために、彼女はずっと、
最初から最後まで「負」の存在であり続けなければならない。
でなければ、善人だけしか出てこない物語となり、
ストーリーとしては平坦でお粗末な展開となる。
敵役は最初から闇らしい闇であり、
主人公(達)は逆に、真っ白な闇を背負っているようなものだ。


そんな、単純にハッピーエンドではないものを、
今日の映画を見ながら感じていた次第。
それにしても、昔からイギリス映画って暗いなあと思っていたけれど、
童話原作の子供用の映画でも暗いというというか、
改めて闇の迫力(暗い情念)を感じた次第。
ハイジだけがハイだとは言わないけれど、
ある種の闇に対する別の種類の白い闇を意識して、
『ハイジ』を観るとは思わなかった。

ハイジに会いたい!―物語の背景とスイスアルプスへの旅

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ハイジ〈上〉 (福音館文庫 古典童話)

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ハイジ〈下〉 (福音館文庫 古典童話)

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