Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

残像・断片

母は白内障で入院し、目にレンズを入れた事をすっかり忘れ、
「入院なんかした事無い」と頑張る。
入退院を経験しないまま老いて来た母の、ちょっとした手術入院は
1週間にも満たなかったのに、あっという間に母を別人にした。
視力は戻ったかもしれないが、すとんとつまずいて記憶の視野は欠けた。


別の手術で1週間程度の入院。入院直後に見当識がおかしくなった。
看護師は、お年寄りにはよくあることですとケロッとしていたが、
ここは何処私は誰状態の親を目の当たりにし、訳がわからないくらい、
こちらの方が動揺した。そのまま、母の世界は欠落し続けている。
白内障は器質的な欠陥ではなく、心の通った世界の映像、記憶の世界を、
入院は家族が誰も周りにいなくなる、今までの世界から切り離された、
孤独な経験だったに違いない。


母の世界は、時間軸のずれた残像の中に、その時その時の思いつき、
不安な思い出の表出、周囲を欺くかのような取り繕い、成りすましで、
自分の世界の侵食を食い止めようとするかのような、
そんな試みの集積、穴だらけの塔、脆いバランスのジェンカ、
あっという間に世界が消え去ろうとしている、その一歩手前。
会話が、対応が、やりとりが、辻褄合わせが綻びたまま、
寝たきりで無いだけ幸せと受け止める日々。


よく世間で、「まさかわが子が」「こんなことって」なんていうけれど。
子供と親を入れ替えたらいいだけ。「まさか自分の親が」って。
そのまさかが、これからどんどんエスカレートして行くのかと思うと、
正直やるせない。今がまだまだ序盤戦だという事が、
これから先が長い長い下り坂のだと思うと、ひたすら哀しく切ない。
豆まきの豆が行方不明になってしまうように、
色んな物が不透明な記憶の向こうで、神隠しにあっている。

心の病は脳の傷―うつ病・統合失調症・認知症が治る

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サクセスフルエイジングのための3つの自己改革

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節分を楽しむ事ができなくて、当たり前に楽しむ事ができなくて、
娘にも申し訳ない。豆が行方不明。豆菓子さえも行方不明。
一夜飾りは嫌なので、準備そのものも前から、
そんなふうに思って用意してあった豆が消えて、二日。
忘れた頃にどこかから出てくるのか、誰かの胃の腑に納まっているのか。
本来の役目を果たすことなく、節分の夜は終わってしまった。


ふみふみ。はっぱふみふみ。すらすら書けるボールペン。
突然頭の中に浮かんでくる。インクが切れてちっとも書けない、
何かが欠けてしまって回転しない、辻褄が合わないままの、
日常生活。ふみふみ、お手紙さえも届かない。
言葉のやり取りさえも、どこかへ忘れ去られて来てしまい。
醒めていく関係ばかりを目の当たりにし、
優しさは取り繕いのバリエーション。


家族との日常会話も避けて、本に顔を埋め線を引き、
言葉を抜き出し書き写し、夜中も早朝も起きている母を見ていると
これが自分の未来の姿なのだと思わされ、震撼とさせられる。
家族と語る言葉を忘れて、夏炉冬扇の如きとののしった文芸書に、
戦後間も無い時期の文学全集に顔を埋めている母の、
はっぱふみふみ生活。手当たり次第に線を引く。
新聞でも、本でも、何にでも、線を引き続ける。


音声を伴わない言葉、自分の言葉では無い言葉、
人の言葉、人の文章、人の歌、それらを何万言も綴り、
再び見る事も無いチラシの裏に写しつつ、毎日を過ごす。
若い頃の思い出を語るでもなく、一緒に座るでもなく、
食事時、さっさと座って、さっさと食べて、さっさと片付けて、
さっさと仕事。今の母は、すぐに布団にもぐり込む。


「女はじっと座って何もしないなんて、許されない」
夜なべ仕事が当たり前。手を動かさずに座っているなんて、
そんな人間は価値が無い。耳にたこが出来るほど聞かされて、
うんざりしてきたけれど・・・。
昔の田舎の夜なべは家族で囲む囲炉裏端があった。
お茶を飲みながら過ごす、憩いのひと時があった。


父は父、母は母、それぞれが自室ならぬ自分の居場所に閉じこもり、
お互いに、共に茶を飲み交わす事もなく、家族と打ち解ける時間も無く、
独りにしておいて欲しいのか、独りで無いと落ち着かないのか、
家族の残像を、架空の家族を、断片を、もはや何もかも、
自分の生活の表舞台から隠してしまったのか、
そんな気さえする、毎日。


その記憶のまだらなまま、日々の言動に見られる変化に、
付いて行けないのか? 合わせようとしないのは自分なのか。
親戚・知人の中で、最も早く呆けて行くのが自分の親だということに、
何とも言えない思い。父の家系はそういう人が誰もいない。
何が母を老い込ませたのか、追いこんだのか。
時に脈絡の無い行動のせいで、感情が爆発したり、空ろになったり、
固執して頑固で、訳のわからない断面だけが、不連続。


鬼は至る所にはびこって、娘とコンビニに買いに走った、
可愛い「リラックマ枡」入りの豆如きで追い払えない。
鬼は隠(おに)だ、鬼は隠忍(おに)。
心にあるわだかまりを、傷を抱えたまま、壊れていく。
そんな欠落した記憶の向こうに、人ではなくなっていく、
自分に馴染みのある「人の姿」ではなくなっていく、
母の姿がある。
母にとっては、周囲全てが遠ざかっていく、
「人の姿」ではないものに映っているのかもしれない。


毎日の生活が断片と化して、裂け目の中に消えていく。
色んな物がなくなる我が家。どこに行ったのか、
わからなくなる我が家。まだ母に母であって欲しいのに。
まだ側に元気でいて欲しいのに。三寒四温の天気のように、
昨日は人間で、今日は人に非ず? 毎回同じ人に非ずの風情。


そんな毎日。今年は1ヶ月過ぎ、そんな毎日。
何処まで行っても? 何処まで行けるか
私は蜃気楼の向こうに母の姿を探しているよう。
ふみふみ。まだ文も見ず天橋立
小式部内侍を育てた和泉式部
歴史の中では逆縁の不幸を味わったのは和泉式部なのに。
「まだふみもみず」の毎日を、親子の会話を失って、
母らしい母との会話を失って、
ふみどころではない日々を送っているのは、私達。


娘よ、君は今日図書館で予約した本に囲まれている。
沢山の本、本好きなのは、かーちゃんは嬉しい。
でも、君の読む本が、かーちゃんと過ごす毎日の短さを
象徴している気もする。
かーちゃん好みの本を借りてきている君。
何だかね、嬉しくて寂しくて、はっぱふみふみ。


若くても年老いても、距離がある。はっぱふみふみ。
まだ踏みも見ず、まだ文も見ず。
心は何処まで届くのか、気持ちは何処まで通じるのか。
人と人との間には、いつも測れぬ距離がある。
はっぱふみふみ。はっぱふみふみ。

美しき日本の残像 (朝日文庫)

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犬と鬼-知られざる日本の肖像-

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