Festina Lente2

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『オーストラリア』の真意は?

午前中は歯科大で半日。いつになったら神経は取り切れるのか、
3ヶ月目に入っている歯内治療。人体で唯一、神経を取る作業可の歯の内部。
死んでしまった歯はどんどん脆くなるので、この治療が果てしなく続く、
メンテナンスになっていくわけだけれど・・・、ああ憂鬱。
しかし、これをどうにかしないと私の口の中左半分、咀嚼力が戻らない。
右側だけの片噛みが続くと、また右の歯も悪くなる。
いたちごっこみたいで、疲れる治療の日々。
1本駄目になると上下左右崩れていくような、そんな感じの口の中。


耳鼻科。匂いが戻ってきたのはいいけれど、今すぐに服薬は止められない。
戻ってきたと行っても全面的に戻ったわけではなく、日によって感じ方が違う。
これでいいのか、これでも不自由しないけれどと思いつつも、
香りも匂いも自分の五感の内なので、不十分だとなると嫌なものだ。
欠格、失格、中途半端、不具、不備、そういうイメージが自分の身体について回る。
こんな感じ方、匂いではなかったと差異を意識する度に落ち込む。
かみ合わせや咀嚼に関しても同じく、「こんな感じではなかった」という、
かつての状態に対する執着、失われた自分の感覚への不全感が自分を蝕む時が辛い。
それくらい生き死にに関係しないと思う人もあるかもしれないが、
諦めたり割り切ったり簡単にできるものではない。


人は、何かを切望し、望み・欲望・憧れをエネルギーにして未来を描く。
それはより新しい、大きい、素晴らしい何かではなくても、
今自分の周りにないと思うものを意識する。強く望む。
自分があるべき場所に収まりたいという感覚、そうでなくては自分ではない、
自分自身ではなくなるような不安、そういう物に追い立てられて、
より自分自身であろうと行動を起こす。
それがプラスに出るかマイナスに出るかはともかく。


午後からは研修で「パーソナリティ障害」に関する話だったので、
シビアでハードで疲れた。リストカットや解離について、楽しく聞ける話ではない。
知識として受け入れてもその先一体どうするのか、課題はてんこ盛り。
だからこそ、忘れないように聞き止めておかなくてはならないとわかっていても。
大変、これが実に大変・・・。
気分転換が必要かな、明日は職免だし・・・。
ということで、、時間的に見ることが出来たのは話題作『オーストラリア』。
期待しすぎて、ちょっとこれでいいのかこの話? とこけてしまった。

境界性人格障害(BPD)のすべて

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私はオーストラリアに旅行したことがない。南半球を知らない。
1970年の万博の時、なんて面白い形のパビリオンだろうと記念メダル購入。
長らく2段ベッドの縁に飾っていた子ども時代。
学校で習うオーストラリア。羊の国。白豪主義の国。
漫画『エースをねらえ』で紹介されていた国。テニスの強い国。
その漫画の中でも、アボリジニの血を引くグーラコングのエピソードがあった。


オーストラリア、いまだ旅行したことの無い国。国というよりも大陸。
それをテーマにした映画は・・・予告編は旅行会社とタイアップしたのか、
実際の映画のストーリーとは随分異なる雰囲気を前面に押し出していた。
結論から言えば、看板に偽りありではないのかって感じ。 
それとも白豪主義の名残、イメージを一掃するためのプロジェクト? 
ハリウッド役者ではなくて、オージービーフ、違った、
生粋のオーストラリア出身の役者で固めた映画を作りたかった、
その流れの元での3時間のコマーシャルメロドラマという感じ。

生命の大地―アボリジニ文化とエコロジー

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アボリジニの教え―大地と宇宙をつなぐ精霊の知恵

アボリジニの教え―大地と宇宙をつなぐ精霊の知恵

語り手は、アボリジニと白人との間に生まれたハーフ。
盗まれた世代を代表する、ただでさえアイデンティティ揺らぐ世代の青年時代、
その少年が拙い英語で語り部となり、二重枠組み構造の中でストーリーを展開。
語り手が話の主人公である、重要な登場人物である、決して端役ではない。
だから、この映画はややこしい。前面に出しているのは戦時下のオーストラリア。
英国貴族からオーストラリアの大地に根付く一女性と、牛追いを生業とする男。
渡豪した途端に、領地で夫君の他殺体とお目見え。
食肉業界を牛耳る商業的な画策の背景に、殺人・恋愛・人種問題・結婚・戦争、
ひっくるめて描き出そう。キャンバスは雄大なオーストラリアの大自然
これさえバックにすれば、画面はOK。そんな感じの設定。


子どもと動物を出せば映画は当たる。そのために彼を使った?
アボリジニとのハーフであるナラ役の少年は、実際魅力的だった。
そういうものに、美人女優とかっこいい俳優が出張る恋愛を加味して、
共生主義にのっとった多民族医国家への再生を目指し、
過去の過ちを懺悔と謝罪のもとに表明しています的な、盛り沢山映画。
ついでにと言っちゃ何だが、日本軍が攻めて来ていて、日本は悪役の片棒を、
白豪主義と一緒に担いでいる仕上がりとなっていた。
歴史的な事実に関しては致し方ないけれど、
美しく過酷な大自然と、アボリジニに対して行った事を踏まえ
オーストラリアの歴史を描き出す時に、この恋愛と戦争は不可欠なのか、
そんなふうにも思えた、中だるみ後半。

オーストラリアの不思議100

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物語オーストラリアの歴史―多文化ミドルパワーの実験 (中公新書)

物語オーストラリアの歴史―多文化ミドルパワーの実験 (中公新書)

深い感動は無かった。感銘も受けなかった。
真っ直ぐ見つめてくるハーフの少年の瞳の力の強さ、
娘を失いながら部族の呪い師として生きるその祖父。
そして、成人式に当たるウオークアバウト。
異文化を理解しようとしないのと同様、
お互いの生き方を理解しようとしない男と女。
商売敵、伝道者、軍、その他大勢。複雑な人間関係もなく、
勧善懲悪的にわかりやすい配役の映画。
登場人物たちは、自らのテリトリーにふさわしいか、
ふさわしくないかを見定めるのに汲々とし、揉め事を起こし、
結局、全てのくびきを破壊して再生に導いたのは、戦争?
そういう設定で、困難を乗り越えました的エンディング、やめて欲しい。
他力本願じゃないか。では、自分達は何をしたのか?


ストーリー展開に疑問と持たざるを得ない作品。
煙に撒かれた様な気がする。
広大な自然を背景に自分探しをする、一人の女性として、男性として、
相手を理解し受け入れる人間として再生する、
その背景に、多くの死・争い・憎しみ、戦争が無ければならなかったと。
そんな皮肉な目で見てしまう、3時間もの大作『オーストラリア』。
ニコール・キッドマンヒュー・ジャックマンが出ているからこそ、
集客が見込めるのではないかと思える、あの予告編。
騙されたわ・・・。


この映画の真意は? 
監督はぬけぬけと、主人公はオーストラリアの自然だと抜かすし。
派手な演出で、いや、違うでしょと言いたくなる。
本当にメインにしたかった内容をカモフラージュするか、
ソフトに持っていかなければスポンサーが付かなかっただけではないの?
そんな気がする、そんな気がして仕方がない映画、『オーストラリア』。
皆さんは何を目的に観に行かれますか?
見て、何を感じますか?
私、騙された感が強い・・・です。


自然を背景に恋愛を見せるのであれば、まだ『ピアノ・レッスン』の方がリアル。
彼らは得るべきものは得たけれど、失うものは失っているから。
もっとどろどろしていて、もっと生きることに対して猛々しい。
『オーストラリア』の主人公達は、ある意味失っていない。
ストーリーが始まるまでに、それぞれの連れ合いを失くしているけれど、
映画が始まってからは違う。喪失したものの質が違う。
そんな気がしてならないのは、何故だろう。
もう一度、『ピアノ・レッスン』の激しさに触れたくなったなあ・・・。


ちなみに、主演のヒュー・ジャックマン、愛妻家で、
『X-メン』のウルヴァリン役でお馴染みの彼がインタビューで
「私が最も訴えたいメッセージは、先住民であるアボリジニの悲劇など
オーストラリアの“負の歴史”の検証」と答えているらしいので、
安心。恋愛を前面に出さない発言で良かった・・・。
とにかくそう思えるくらい、映画の内容は主演の二人がいなければ、
観客を呼べただろうか・・・という内容だった事。
大河ドラマに売れっ子スターを使うのと同じと言われたら、
確かにそうなんだけれどねえ。


この映画で「盗まれた世代」に対する謝罪のみならず、
ある角度から見た「歴史」の側面を知ることはできる。
その一部に、過去の日本が絡んでいる事も。
でも、「失われたもの」を取り戻すのは大変。
それは、今までも、そしてこれから延々と続く作業。
個人レベルでも、世代でも時代でも、国でも、自然そのものでも
失われたものを取り戻そうとして傷つき続ける。
その事を思うと、やはり落ち込む・・・。

アボリジニで読むオーストラリア

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