Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

写真を入れて書くのは難しい

今回の連休の旅。最も気になったのは体調。
無理な予定を組んでいるわけではなかったけれど、
一番足手まといになっているのは自分ではなかったか。
服薬を忘れてはいけないと思いつつ、点鼻薬などはついつい忘れがち。
食後の薬と違って、一日二回二種類、忘れるはずなかろうと思うでしょ。
一つ使って数分後にもう一つ別のを使用という注意。
すると、その数分後2回目の点鼻薬を忘れる。
時間はばらばら、数分後は1時間以上あくことも珍しくない。
就寝前だけというのならともかく、飲む時間帯がばらばらだったり、
一日一回だけ、食後、朝夕二回、様々な飲み方があると、どうもね。


それでもクラビットは良く効き、激しい頭痛、歯まで響く鈍痛、
頬骨の違和感、そういうものが次第に重苦しさ、
日常的な疲れに相当する重だるさに変わっていって、
何とか2泊3日を旅行しすることができた。
新陳代謝基礎代謝が落ちてている中高年、更年期に加え、
思うように体が動かないだけではない。
風邪? 今年も花粉症と風邪が一緒にと様子見、
ある意味ごまかして、大丈夫と言い聞かせて日常生活を送ってきたら、
連休前後にガックリ来てしまい、自分のテンションを上げるのに苦労。


そのせいだけではないが、旅行の記録を写真にと思うと、なかなか難しい。
おまけにどういうわけか、ブラウザの不調。
グーグルクロムとはてなの間で、写真のアップロードがうまく作動しない。
場所移動に伴い3台のパソコンを主に使っているのだが、
何故か、記事がフリーズして消えたり、写真の編集がうまくいかなかったり。
縦横、大きさがままならない。
写真のアップロードに関して、ほかのブログはどうなっているのか、
面倒この上ない作業にうんざりしつつ、
普段のデジカメの整理も下手な私。なのに、せっかく旅行したから
今回は記事と同時に写真を多めに入れてみようなどと思ったばかりに、
思いのほか悪戦苦闘する羽目に。


文字を中心に書くのはそれほど苦労しない。
ただし、上手な文章を書こうなどと思うと駄目だ。
時間を食うだけでなく、何を書こうと思っていたのかわからなくなる。
とにかく書いてみて、後から字の間違いでも何でも気付いた時に直す。
時間に余裕のあるときは下書きをするが、この頃それもできなくなった。
しかし、写真を入れることを考えると話を構成せざるをえない。
写真を多用して文章、写真と文章が一体となったブログを書く人は凄い。
その写真を美しく構成する技を持つ人は更に凄い。


文字は加工というか、目立ったアクションを起こせない。
右寄せ、左寄せ、中央揃い、文体は人ぞれぞれ。
散文、韻文、いずれにせよ、日記風、メモ代わり。呟き。
単なるコピーの羅列の人も多い。
日々のニュースを集めているだけのブログも。
人それぞれだなあと思いつつ、記録して残す時、
単なる自分用なのか、人にも見せるためのものなのか、
視覚的なものはなるだけ目立ち、美しくなければ意味が無い。


写真というインパクトのあるものを、載せる。
これは自分には向かない作業だと、
旅行中の記事を3日分の記事をアップしてみて、
つくづく思い知らされた。時間が十分無ければできない。
本日の一枚のように、限られた枚数だけを載せる。
特別の1枚、思い入れのある1枚だけを載せる。
そういう形なら、簡単かと思いきや、
自分の納得がいく写真なんて早々取れはしない。
そして、写真を選ぶのに悩んでしまう。
どれを載せるかさえなかなか決められない。

コミュニケーションをデザインするための本 (電通選書)

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言葉のチカラ ―コミュニケーション レッスン

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育児記録を付けている時に、ブログに出会っていれば、
もう少し楽しんで書いたかもしれない。
文章よりも写真を中心に(根性を据えれば)、
写真の腕がもう少しよければ、
文章にこだわらなければ。
・・・写真のアップがもう少し簡単ならば。


今の自分には写真のアップについてこだわりたいと思いながらも、
じっくり考える時間が持てないことに、
(誰かに聞きながら試してみる時間も無いことに)
改めて気付かされたというか、思い知らされた1週間。
連続で記事を書くのは難しいことではない。
携帯電話ではないが、思っていることの垂れ流し、
とまではいかなくても、思うままに書けば、
上手な文章ならずとも「適当・呟きブログ」になる。


写真を入れる。旅の記録として生活記録の体裁を整えるとなると、
果てしなく時間を食うことに、改めてがっくり。
構成能力の無さに加えて、納得のいく写真なんてありはしない。
では、文章には納得がいくのかといえば、
お恥ずかしい「そこんとこよろしく」程度。
この連休明け以来、全くパソコンに向かうのが苦痛だった。


1000日を越えて日記をつけるのに、何か目標は?
ただ単に書けばいいではないだろう、何か縛りをかけるなり、
新しいことに挑戦するなり、考えてみろよと発破をかけたが、
非常に難しいことに改めて気が付くばかり。
記事の分類も適当いい加減にしてきたので、
本来ならばもう少しきちんと分けねばならない。
そう思いつつ、結局手付かず。


仕事ブログにしてしまうと、専門的なことはいくらでも綴れても、
日常生活のことは書けない。読書日記にすると、
読書メーターやアマゾンの書評に放り込んだ以外のことを
結局書きたくなるだろう。
ブログの前は気分転換に書評を書いていた。
飽き足らず、ブログの書き方を習ったのをきっかけに
この世界に足を踏み入れてしまった。


一番いいのは、毎日書くのをやめることか?
「ゆっくりいそげ」の中に見つめていたいのは、
色んな自分がざらざらとした感触で転がっている、
透かしてみれば色んな色で光っている、
年甲斐も無い思いに満ちて、悪戦苦闘している、
そんな自分自身のアップダウンの激しさだ。


歳を重ねていても、気持ちの揺れ幅、振幅の大きさに針は振れる。
振り切ってしまわないようにセーブすることもできる。
振り切ってしまいたいと思う時もある。
大人気ない発言を綴って、発散。それでOK。
綴り方教室ではないのだから、それでいい。
そう思って文章だけなら書ける。
節操の無い文章、節操の無い文章だからこそ書ける。


写真は頂けない。写真を真面目に載せようとすると、
載せられないというより、載せたいほどの写真が少ない。
美しい花も少ない。美しい景色も少ない。
自分の目で切り取って納得のいく1枚が撮れない。
撮る技術を持たない。
何よりも、写真そのものの解説をしたくなってしまったり、
写真そのものにまつわることを延々書きたくなってしまう。
話がそこから先に進まない。


自分が話したいものは、書きたいものは何なのだろう。
大勢の人は毎日文章を書いたりはしない。
書きたいことがあっても、書いたりはしない。
この無節操な行為が、どれほど日常生活から時間や労力を奪っているか。
わかっていながら離れられない、麻薬のような存在。
書くということが、別の何かに繋がれば書き甲斐があるのだろうか。


写真を見れば懐かしい。写真を見れば美しい。
しかし、文章はそうではない。
毎日は切り取るほどに洗練されているわけではない。
焦点を絞って救い上げると、消えていく出来事も多い。
写真に撮って、焦点を絞りきれる程の生活でもない。
写真は私にとって日常生活を切り取るというよりも、
やはり「ハレの日」の記録の感覚が強すぎる。
趣味の写真という項目を設けるほどの対象を持たない人間にとって、
レンズを通して被写体を見る力を持たない人間にとって、
記事をアップする技術的な根気強さを持たない人間にとって、
いかに写真を扱うことが大変か。


気難しく考えすぎるって?
テンションは低くても文章は書ける。携帯電話と同じ。
言葉は垂れ流し状態に書くことも可能。
写真をアップするということは、書くよりも
行為を客観視させる、一手間も二手間も掛かる行為。
何気なく1枚だけ、渾身の1枚だけということができない以上、
さらりと写真を載せる。文章も書くということは難しい。


日記ではなく、創作に近い? 日記のように自由に書けない?
自分と、自分の考えていることを単純に写す作業と、
その間に割り込んでくる視覚的な情報の処理に、
あたふたしてしまう。
さて、いかなものか。
この2泊3日分で疲れてしまった私。
当然娘のアルバム整理ができない。
撮るのは簡単。整理は難しい。「アルバム」という構成ができない。
撮ったものを仕舞うだけ。時間的な羅列のみ。


想い出に向かい合う、しっとりした時間を持つ余裕もなく毎日が過ぎる。
その日常を改めて突きつけられた、連休明けの日々。
仕事は山積み。やる気は起きない。
全く大人じゃない。

文章は写経のように書くのがいい

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ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

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