Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

心が届かない日々

職場の近所はとうとう田んぼを潰して畑にしてしまうのか。
手入れがされていなかったので、他人事ながら危ぶんでいたが、
やっと水を引き入れ始めた。よかった、今年も田植えがある。
そんな風に考えてしまうのは、何も宅地用に田んぼを売ってしまわれるのが、
単に嫌だとか寂しいというだけではなく、
田んぼの手入れをする人手が無くなってしまったからではないか、
代替わりして若い世代は土地も家も持て余しているのではないか、
そんな風に思ってしまうからだ。


土地付きの家、庭付きの家、何てありがたいことだろうとは思う。
一戸建ての家、ガレージのある家。
持てる幸せとは、失ってみなければわからない。
友人たちが親を見送る中、私は恵まれている。
当たり前のように享受している幸せに気づくには、
よほど慎み深く感謝する毎日を送らない限り、
神仏のご加護も、御恵みも、なんとなれば忘れがちな毎日。
フルタイムで仕事をしつつ、家の手入れまで
何事も全般諸事執り行うということは不可能に近い。


だからこそ分業、分担ということになるのだが、
これまた頑として譲らない親の世代に、苛々してしまうことが増えた。
自分もあんなふうに頑固爺にぼけぼけ婆になってしまうのかと、
親を見ながら情けなくもなり、落ち込みもする毎日。
良かれと思ってしたことは、お互い小さな親切余計なお世話。
小学校4年の我が娘の、家事手伝い万端望むところに能わざる孫と、
ばっさり切り捨てられて、この土日にジャガイモ掘りの手伝いをと
前々から申し出ていたのに・・・。


お互い予定がある生活とはいえ、毎日が日曜日の畑ならぬ我が家の庭の菜園。
幾畝もない30分もかからぬはずのジャガイモの苗を一株だけでも、
残しておいてくれても・・・と思うのはこちらの勝手な都合で、
老親はそれなりの予定があって生活しているのだろうが、
何とも心寒い。話しかけても煩がられ、心配するなと言われても、
電球の付け替え、掃除機、書類全般、何でも自分ですると言う親。
以前は頼もしく思ったが、最近ではいい加減にしてくれと思うことも増えた。

優しくしたいのにできない―親の「老い」と上手につきあう知恵と工夫

優しくしたいのにできない―親の「老い」と上手につきあう知恵と工夫

 



無論こんなことをいえば罰が当たる、やくざな生活をしている身の上。
昼夜逆転かと疑われ、夜討ち朝駆けではないけれど、
行ったり来たり、出張・研修、通院、その他こまごま、
生活の慌しさに心配を紛らわせて、日々を送る。
親にしてみれば、子育ても仕事も中途半端な娘と
歯がゆくてたまらないのだろうが、もういい年なんだよ。
お互いの生活リズムが合わないのは当たり前。
年の差70年。程よい距離を保とうと苦労しながら、
四六時中一緒にならないよう過ごすのも気詰まり。
どうしたものか、どうしたらよいものか。


親が生きてくれている乳母日傘のありがたさを日々実感しつつ、
もう少し頼ってくれてもいいのに、それほど相手にされないのかと、
寂しさも募る。それ相応に仕事をして頑張って過ごしていても、
「当たり前のことを褒めて何になる」という親と向かい合うのは、
気骨が折れる。いつまで経ってもすれ違っていて哀しい。
朝5時に起きて水をまき玄関掃除をし、畑(庭)の手入れを終えて、
朝餉を整え、素顔など見せずに振舞い、人よりも早く食べ、
一番遅くまで起きて仕事をすることをモットーに背筋を伸ばして生きる。
立派だとは思うが、その現実がどのようなものだったか、
どのような形でほころんで行ったか。


子どもには子どもの言い分がある。子どもの感じ方がある。
仕事に振り回され、老母に手を焼きながら、
最近では「手を借りずとも」と言い張っていた老父の頑固さ、
いや増しに増してきた頑迷さ辟易としてきた。
うちの親は『グラン・トリノ』のクリント・イーストウッドではないのだ。
そんなに格好のよい親ではない。施設に入ってほしいわけでもなく、
単に聞き分けのいい「じじばば」になって欲しいわけでもないが、
もう少しお互い歩み寄ることができないだろうか。
お互いに残されている時間は、ひたすら貴重なものなのに。


結局、一緒に過ごすことのできない土日。
祖父母の庭を、家の手入れを、人の手に任せたくないという、
そのくせ、何かあったら頼る者は、私たちだけという、
このどうしようもない矛盾の中で、今年も半年。
6月に入った。近所の田んぼには水が引かれた。
暑い夏が過ぎれば、季節は実りをもたらすのだろう。
けれど、家族は家族でありながら、水を引くことのできない、
乾いたままの土地の上で、刈り入れることのできない実りを、
幻の未来を耕し続けているばかり。


実の親子でありながら、どうしてこうなってしまうのか。
他人と距離を取り続けているばかりではなく、
実の子どもとの距離がわからずに、老いて行った親。
親との距離を縮めることができずに、かさ高くなった私。
老いることへの嫌悪感を募らせて、両者の間でうんざりしている娘。
家族の関係を潤し、毎年の実りを夢見ることは難しい。


世代交代は難しい。まして、「ユズリハ」のような美談にはならない。
経済でも政治の世界の話でもない。老老介護の現実を迎えている世間、
少子高齢化社会を日々現実のものとしている毎日。
「おひとりさま」であっても、「おひとりさま」でなくても、
煩雑に抱え込む、もしくは索莫と整理する心の重さは変わらない。
仕事の世界は「自分だけのことではない」というのに、
家族に関しては「自分だけのことではない」と言わない。
言えないように「家族」の幻想をいまだに保たせようとする、
家族の在り方が哀しい。


「お前たちで好き勝手にやってくれ」
「俺たちは俺たちのやり方でやるから」で
解決するはずのない世の中に住んでいるというのに。
視野に入れなければ、何も無いことと同じと言うわけではないのに。
距離さえ取れば、声さえ聞こえなければ、
静かで安寧な毎日が送られるとでも思っているのか。


青々とした稲田には泥田が必要なように、
水を入れる前にねかせて耕す時間が必要。
その時間は当に過ぎていると言うのに、
お互いの手がお互いに届かない毎日。
親には感謝しながら、心が届かない毎日。

遠距離介護デビュー応援ブック―老親との対話できていますか

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